忘憂之物

男はいかに丸くとも、角を持たねばならぬ
             渋沢栄一

地べたの冷たくて気持ちよさは異常

2010年09月08日 | 過去記事
先日、車で寝ていてバッグを盗まれたのだが、その中には何年か使った革製の白い長財布があり、その中には運転免許証が入っていた。交番から自宅に帰る際、小心者の私はお巡りさんに「もし、帰るまでに検問でもあって、免許証を出せと言われたら不携帯になりますよね?」と言ってみた。私は何か、国家権力から「この人はバッグを盗まれたばかりだから、運転免許証を所持していないが、この人物が犯罪者でもなければ、自宅まで車を運転して帰ることは国家が保障する」という免罪符のようなものがあるのかと思って聞いてみたのだが、どうやらそんなものはないらしい。

お巡りさんは「事情を言えば、大丈夫だと思うよ」と言ってくれたが、ということはつまり、正確に言うと「免許証不携帯」として罰金喰らっても仕方がない、大丈夫じゃない場合も想定の範囲、であるということだ。しかし、これを私はそこらの安モンの在日のように「おかしいじゃないか!」とはやらない。もし、自宅に帰る途中、検問があって免許を出せと言われたら、正直に事情を話して、それでも「ダメなものはダメ」だと言われたら仕方がない、と思っていた。そんなことをいちいち世論に問いかけているヒマはないし、物事には何でも不備があって然るべき、これがどうしても難儀だというならば、どこかの頭のいい人が法律を変えてくれたりするだろう。

それよりも、これを「ああ、そういうことでしたか、ではでは、お気をつけて」というほうが具合は悪いこともわかる。「これで通じる」などとなれば、世の中に「無免許運転」が増えて困ることになる。それで自分が不携帯に問われずとも、身内が無免許運転の車に轢かれる交通事故に遭うなどあっては、笑うセールスマンも笑えまい。それに、日本のお巡りさんは優しい人が多いから、受理番号を伝えると所轄に確認してくれたりもするだろうが、それも手間なわけだから「やれ!」というわけにはいかない。やってくれたら嬉しい、親切なお巡りさんだなぁと感心するだけだ。

また、私の場合は「外国人登録証」も携帯しておかねばならないから、これも急いで再発行してもらわねば困る。所持していなければ、万が一、道端で職務質問でもされた場合、私は罪に問われることになる。もちろん、これも仕方がない。

そして、これはありがたいもので、この外国人登録証があるおかげで、私は日本という外国でパスポートを所持していなくとも捕まらない。私は国籍法上において外国人なのである。これくらいのことは「なに人」であろうが、大人なら知っておかねばならぬ常識である。

だから私は市役所にて再発行されるまで、道端ではお巡りさんを避けて通らねばならない。「自首」するつもりはないし、もし捕まっても迷惑なだけだ。残念ながら、私は指名手配犯でもないし、凶悪事件の犯人でもない。お巡りさんの手柄にすらならない。交番で叱られて、速やかに妻に連絡されて迎えに来られ、いくらかの罰金を支払うだけのことになろう。それなら、やっぱり、出来るだけお巡りさんに不審に思われぬよう、悪い人相を隠しながら道を歩く他ない。そして、これは不便であるが差別でもない。なぜなら外国人登録法第2条第1項に規定されているからだ。これは法治国家に住む者として常識である。

だから、私はこっそりと免許証の再交付をお願いしに行った。書類を提出し、何度かの待ち時間を経て、ようやく免許の作成をしてくれることになった。待ち時間は約1時間半ほどだ。私は目をつけておいた喫茶店に入って「れーこー」と頼んだ。

広い店内には、私を含めて3人ほどしかいなかった。伏見の教習所にはたくさん人がいたが、その人らはみんな、そこらに座っている。たしか、私と同じ待ち時間の人も何人かいたが、その人らもどこかに行った。そういえば、教習所の正面から入ったフロアには、たくさんの自動販売機があった。そして階段には「座らないでください」という注意書きがあった。地べたに座り込んでいる若い子もいた。もちろん、建物の中は冷房も効いているし、フロアは冷たくて気持ち良いのかもしれない。建物の外にはベンチもいくつかあったが、その日も気温は30度を超えていただろう。酷い暑さだった。


「れーこー」とはアイスコーヒーのことだが、これは400円だった。たしかに自動販売機で清涼飲料水を買えば120円か150円で済む話だが、私はどうも、あの「地べたに座り込む」というのが出来ない。いや、私が10歳だったらわからない。400円は大金だし、地べたなら座るどころか、寝転がって昼寝もできるだろう。冷たくて気持ち良さそうだし、飽きたら外に出て草むらを探検したり、掘り返して放ってある切り株を持ち上げたりして遊ぶことをしてもいい。自動販売機もたくさんあったから、下を探って小銭を見つけるのも嬉しいだろう。しかし、そこは自動車運転教習所だ。10歳の子供が単独で遊びに来る場所ではないから、みんなフロアに座ってぼ~っとしているか、携帯電話でゲームやメールをしているか、だった。

また、免許証の再発行を届ける書類には「顛末」を書かねばならない欄がある。私も簡単に「盗難」と書いた。紛失した場所は「JR京橋駅付近の有料駐車場」と書いた。それに3650円の収入印紙を貼りつけて、自分の顔写真を一枚用意して並んでいたら、私の前にいた兄ちゃんがなにやら言っていた。提出して確認してもらうだけのことで、何をこんなに時間を要しているのかわからなかったが、近くによって話を盗み聞きすると、どうやら「顛末」がわからないらしい。窓口の職員さんは馬鹿にもせず、まあ、なんとも丁寧な説明をされていたのであるが、無礼なのはこの「顛末」を理解できぬ兄ちゃんだった。

「なにが?ああ?」

「無くされたんですか?」

「おう。無くしたから来とるんやろが」

「どこで、どう無くされたんですか?」

「はぁ?なんや知らんがな、車にあったのに、見たら無いんやんけ」

少し離れたところでは50過ぎたようなおっさんが怒声を放っていた。どうやら「暗証番号」を発行する機械の操作、というよりも、その意味がわからないらしい。女性の職員さんが説明していたが、要するに免許証作成後、受け取る際に必要になる番号を4ケタ、任意で2つ決めるだけの話なのだが、そのおっさんには理解できないらしい。

おっさんは、やたらとでかい声で「だから!なんの番号やねん!」としか言っていない。最期のほうはもう「なんやねん!」になっていた。職員さんも適当に番号を押して、出てきた紙を渡して「いいか?馬鹿野郎?これと免許証を交換だ!時間は1時間半後だ!時計は読めるか?いいな?遅れるなよ!」とでも言えばいいのだが、それでクレームが来たら困るのは職員さんだろう。

不思議な光景だった。普通、世の常識ではわからないほうが頭を下げることになっている。教えてもらうほうが丁寧に問わねばならないことになっているはずだ。道を訊ねる際「おい!貴様!郵便局はどこだ!」と言わないのと同じことだと、なぜだか、相手が区の職員だとわからなくなるらしい。先ほどの若い兄ちゃんも、若いと言っても10歳ではない。自動車の運転免許を取得できる年齢だろうから、どんなに若年でも18歳以上なわけだ。18年も生きてきて「顛末」を書けない、わからない、など、普通、親は外に出してはいけないレベルではないのか。その彼は舌打ちしながら、窓口のおじさんの言う通りにボールペンで記入していたが、全て平仮名なのはともかく(“紛失”を“ふんしつ”ではなく、ふんしゅつと書いていた。噴出してどうする)、その字のまあ、酷いこと。象形文字かと思った。まさか、京都の伏見でインダス文明に触れるとは思いもしなかった。


喫茶店での3名は年配の人だった。全員が新聞かスポーツ新聞を読んでいた。私も持参した産経新聞を読み、そのあとは曽野綾子さんの小説を読んでいた。熱いオシボリで顔を拭き、冷たい水を喉に通して、冷房の効いた空間の中で、人間が座るために作った椅子に座る。店内にはクラシック調の音楽が流れていて、壁にはちょっとした絵画もあった。天井は高くて洋風のデザインが施してある。窓からはバス停やタクシー乗り場が見渡せるようになっていて、眉間にしわを寄せて遠くを見ている人、灼熱の太陽がある空を睨みつける人、タオルを頭に載せて下を向いている人などが外の暑さを想像させる。

400円が高いか安いかはともかく、少なくとも先進国に住む人間としては、地べたに座ることは避けたい。地震や台風で非難しているなら贅沢は言うまいが、しかし、たかが免許証の更新や再発行、あるいは免許の取得のための教習に通うだけで、地べたに座り込んで不機嫌な面しているだけ、というのはいかがなものか。しかも、近代文明の象徴のひとつ、自動車を運転する文明人として恥ずかしいのではないか、と思うのである。

普通、人でも動物でも文明から外れることを「野生化する」という。文明の利器や文化の利得から解放された生き物は、その代償として野生で生きる逞しさや野生の勘、あるいは単純に牙や爪という武器も得て強靭な肉体と精神を手に入れる。また、文明社会において、その束縛から逃れて、何の制約もないところで死ぬまで生きることを「野良」という。これも人間も動物もいる。彼らは文明社会に対して何の役にも立たないが、少なくとも、こっそりと残飯を喰って生きることが許されている。

しかし、最近は、そのどちらにも属さない生き物が増えてきた。

仕事もせずに「社会が悪い」と威張りながら炊き出しに並ぶ人間がいる。生活保護申請が通れば医療費は無料だとして、毎日、仕事で忙しくて病院にも行けない人よりも病院に行く。遅くまで働いて、近くのスーパーが閉まる直前に飛び込み、安売りの食材を買い漁って、さもしい夕食を喰って頑張る人もいれば、生活保護費だけでは寿司が喰えぬと文句を垂れてテレビに出る人もいる。中小企業、それもサービス業や介護福祉の仕事では人手がないと言っているのに、やりたい仕事じゃないと言って職安の職員さんに文句ばかり言うのがいる。

自分の頭が悪いだけなのに、それを恥ずかしがることもなく、申し訳ないと思うわけでもなく、自分がわからないのはお前の所為だ、とも言わんばかりに高圧的に阿呆を晒す人間までいる。往々にして、こういうのが地べたに座る。ま、本能的にわかっているのだろう。

本当は自分のいる場所は「地べた」なのだと。

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