釈迦の思想の中核は「縁起の法」にあると云っても良いくらいに
大事なテーマです。
詳細な説明の前にザックリと説明しておきます。
「縁起の法」とは、釈迦が幼少期の体験や世間の出来事を見て、
巷に溢れる悲しみ苦しみは何故起こるのだろうかと考察、
苦行、瞑想の果てに導き出した法則です。
物事は間接縁と直接縁の関係に依て某かの結果が生じる。
その結果に新たな縁が加わる事に依って次の結果が生じる。
この連続でこの世界が成り立っている、という事を説明したものです。
更にこの法則は偶然に起こるものではないとしています。
縁起の法を原因結果の関係で見た場合には、
間接原因に直接原因が加わる事で某かの結果が生じる。
これを因果の理法といいます。
つまり、現在起こっている事は、何となく偶然そうなったわけではなく、
そうなる必然的な理由が存在している、というのです。
詳細説明する前に語句の説明をしておきます。
*「因と縁」
”因”とは直接原因、”縁”とは間接原因とされていますが、
”縁起の法”の様に”縁”は原因全般を表す時にも用いられます。
”間接原因”とは、環境やこれまでの経緯、人間関係等、
今後に起こる事の下地になる条件が挙げられます。
”直接原因”とは、具体的に顕す言動です。
間接原因と直接原因の関係性に依っては結果が異なる可能性はあるものの、
両者が揃う事に依って結果が生じると説明されています。
*「因縁と果報」
仏教でよく使われる熟語が幾つかあります。
「因果の理法」・・・因と縁の関係で原因結果の法則が成り立っている。
「因果応報」・・・原因に応じた結果、報いがある。”善因善果、悪因悪果”
「因果因縁」・・・因と縁の関係で原因結果の法則が成り立っている。
「因縁果報」・・・因と縁の関係で結果、報いがある。
「因縁生起」・・・全ての現象は、因と縁の関係で成立しているもので
あって独立自存のものではなく、条件や原因がなく
なれば結果も自ずから無くなること。 略して”縁起”
*どれもほぼ同じ説明で、仏教思想を熟語に依って理解し易くしたものと
考えられ、これらの説明で大体どういうものかが理解出来た筈ですが、
総じて全ての事象は偶然に起こっているのではなく、
法則に則とって成り立っている
と云っているわけです。
*「時間縁起と空間縁起」
”縁起”を更に細分化し、時間的視点、
或いは空間的視点から見る考え方があります。
時間的観点を「時間縁起」といい、
原因結果の法則が順次繰り返されるという説です。
「因果の理法」と同じと考えて良いでしょう。
空間観点は「空間縁起」といい、
主として”人間関係の縁”を指しますが、
”宿業”によって或る事象から切っても切れない関係性がある事柄も
含まれます。
例えば、間違いを犯してしまう人には、
間違いを犯さなくなる(改善される)事が確認される迄、
同じ様な状況を再現して試される等という場合には、
環境設定として現れる場合もあるでしょう。
*”宿業”(しゅくごう)とは、
現世で報いとして蒙る、前世に行った善悪の行為の事。
ここで注目すべき点は、
「縁起の法は法則通りの結果が出て偶然は無い」と同時に、
「輪廻転生」(りんねてんしょう=生まれ変わり)がある
としている事です。
よく”無記の教え”ということが引き合いに出され、
釈迦は「あの世があるとは言わなかった」という事が云われます。
しかし、釈迦の”無記の教え”の真意は、
「今、おまえがやらなければならない事は心を静める修行であって、
あの世があるかないか心配することでは無い。」
そういう事だったと推察されるのです。
縁起の法を現実的な原因結果の法則として考察した場合、
「或る個人の生を以て始まり、死を以て終わるのか?」
と疑問が生じる筈です。
例えば、自分が生まれる前の先祖との縁、親との縁、
そして子孫に縁が引き継がれていくわけで、
自分だけで完結するものではないのです。
又、「因果応報」に拠れば、「善因善果、悪因悪果」が
生まれてから死ぬ迄に必ずしも完結し得ない事例が
数多く見られるかと思います。
つまり、縁起の法は
今世に生まれる前からの縁(間接原因)としての「宿業」があり、
そこに直接原因である自身の言動を加えた結果、
死後に今世の結果が次の「宿業」として残るのだ、
と考える事で初めて法則として成立し得るのです。
生まれて来る環境が人それぞれ違いがあって、
全員が同じスタートではない理由はそこにあるという云い方も
出来るでしょう。
釈迦の教えの中にはあの世を想定しないと成立し得ない法則が
論じられているということを理解しておかないと、
釈迦の教えを正しく理解する事は出来ないだろうと思われます。
釈迦の教えを考える上でこの法則が必ず関係してくるので、
常に念頭に置いておく必要があります。