大河ドラマ「青天を衝け」の主人公・渋沢栄一の養子(妻の弟)渋沢平九郎に関する広島側の情報を含みます。慶應2年「慶應征長の役」の直前、戦争を回避したい広島藩は、幕府と長州の間で周旋活動をしていました。在廣・小笠原閣老等に対し、執拗に戦争回避を訴えていた𠁅、執政・野村帯刀、執政・辻将曹が相次いで謹慎処分されました。これに怒った広島藩学問所助教や学生達が決起し、小笠原閣老等の暗殺計画を立て始めます。それ . . . 本文を読む
<芸藩志第18巻@123巻>…一部を書き出し…〇七月五日朝川合三十郎加藤種之助等は全隊を以て江戸を発し銚子港に向ふ千住駅に小憩し松戸駅に午餐し小金駅に至り宿営す〇七月六日朝全隊は小金駅を出発我孫子駅にて午餐を喫し午後申の刻取手駅より乗船して刀根川を下る翌八日銚子港に着船揚陸して運輸汽船の来るを待つ然るに九日に至ると雖汽船の来り迎ふる無し且つ軍期を誤らん事を恐るるを以て明 . . . 本文を読む
※芸藩兵被害:死者4名、重傷者24名、軽傷者12名 計40名 (但、帰営後死亡1名…重傷者含め286名生存)<戊辰役戦史>新山に集結した平潟軍主力は、第1次戦闘の失敗から、慎重な作戦計画を立てる。($①P541)前日一戦もしなかった(と書いてある)長洲、芸州兵を第一線とした。浪江正面は高瀬川の狭い橋梁一本しかない為、ここには一部を進め、他の一部は高瀬川下流を渡り、浪江の東、幾世橋を . . . 本文を読む
<戊辰役戦史>
同盟軍は敗戦の連続で士気が低下し、相馬藩の行動に怪しむべき点がある等と相互信頼が揺らぎ、仙台兵は第一線から遠く相馬中村付近に後退してしまい、相馬藩だけになってしまった。自国領内であるから必死で防戦するが、一方では和平工作もあったらしい。($①P539)
敗戦に継ぐ敗戦で各隊は四散し、28日の熊ノ町戦闘後に浪江駅付近に集結できた兵力は僅か二小隊に過ぎず、その後徐々 . . . 本文を読む
<戊辰役戦史>
官軍は26日広野駅付近から敵を追撃、弁天坂の堅固な陣地を大した抵抗もなく容易に奪取し、木戸駅に進軍、岩国兵はこの付近に宿営した。27日の行動については『復古記』には何の記述もない。(『復古記』をメインテキストにしているらしい)($①P534)
前後の記述から判断すると、因州・芸州兵は広野・下浅見川付近の陣地に帰って宿営した後、27日には木戸北方本道上の北田・井出付近に到着、新た . . . 本文を読む
<『戊辰役戦史』の説明>早朝から前日と同じく敵襲があり、官軍は陣地にて防御したが、因州・芸州両兵共、辛うじて陣地を保持する状況であった。だが、この急報によって久ノ浜ないし四ツ倉付近にいたと覚しき長州2中隊と岩国1中隊が、正午頃広野に到着した。戦闘の岩国兵は中央、長州は左右に展開して直ちに攻撃前進。長州兵は強い。戦勢有利に気をよくしていた同盟軍に対し、陣地から踊り出した長州兵は何の猶予も無く、いきな . . . 本文を読む
<『戊辰役戦史』の説明>23日の戦闘後、芸州・因州兵は広野に止まり前進の準備中、25日に敵襲を受け、因州5小隊、砲2門と芸州兵(兵力不明、おそらく3小隊内外)は予め構築した急造陣地により防御した。($①P531)広野駅は決して良好な陣地ではない。この日の敵は何兵かは不明だが、余り真面目な攻撃も行わず、官軍に防備あるのを見て軽戦のうえ後退した。敵は広野北北東1Kmの本道上下北迫付近に陣地を構築してい . . . 本文を読む
<『戊辰役戦史』の説明>翌24日午前8時に至り、ようやく敵が退却を開始したが、終夜の戦闘に疲れた官軍は広野駅を占領してその場に留まった。この戦闘で因州兵は戦死傷14、芸州兵戦死1・負傷5を出し、相馬中村兵は戦死3・負傷2、仙台兵は戦死6・負傷8、陸軍隊不明であった。なお、列藩同盟軍は北方の弁天坂(弁天山の木戸駅側)に陣地を設けた。($①P526)<芸藩志第18巻>〇七月廿四日暁に至り弾薬送り来る而 . . . 本文を読む