*薩土盟約、薩土藝盟約が相次いで不成立になった後に 紆余曲折あった後に成立。*便宜上「薩長藝」としているが、 広島藩が朝廷、幕府、長州の周旋を行っていた関係で 薩摩、長州、土佐の意見をまとめて主導的に動いていた為、 実際には「藝薩長軍事同盟」であった可能性が高いと考える。薩摩は外国との密貿易と偽金で雄藩になったが、長州では攘夷の嵐が吹き荒れていて、薩摩が外国と密貿易をしているとして薩摩船を攻撃して . . . 本文を読む
薩土盟約を広島藩の見解から説明。朝廷、幕府、長州の間で周旋し、薩摩とは経済活動で親交があった広島藩が主導的に活動していたと覗える。「藝薩土盟約」とすべきと考えるが、便宜上「薩土藝盟約」としておく。広島藩の幕末史「藝藩志」に依れば、薩土盟約に藝州が加わった経緯は以下。慶応3年1月5日に幕府に環政建白(朝廷に政権を返上すべし)をした広島藩は、王政復古を目指し、京都に於いて親交のある諸藩の賛同を取り付け . . . 本文を読む