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「青天を衝け」(7)がより面白くなる 町田明広先生の解説 3/28

2021年03月28日 23時07分37秒 | 大河ドラマ「青天を衝け」がより面白くなる話
「青天を衝け」(7)「青天の栄一」

内容:
自分の志や千代への思いに心が揺れる栄一は、山道を歩き、
詩を読み山頂で真の思いに気づき、青天を衝く!
江戸では次期将軍に慶喜を推す声が高まる中、家定が反発する。

長七郎が江戸へ部車種業に行き栄一は千代と気まずい関係が続いていた。
更に喜作が千代を嫁にもらいたいと言い出し栄一は動揺する。
一方江戸では、老中・阿部が亡くなり、幕府は大混乱。
慶喜を次期将軍に推す声が日増しに高まる。
そんな中、惇忠と藍売りに出かけた栄一は、山道で漢詩を読み歩く中で、
真の思いに気づき山頂で青天を衝く!


*この色で少し文字が大きいのは、URL貼っています。

本日は「青天を衝け」7回目です。今回も可能な限り、地上波放送後、感想やミニ知識をつぶやきますので、よろしければご一読ください(^^) なお、あくまでも個人的な見解ですので、ご理解いただける方のみ、お願いいたします。
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「青天を衝け」7回目を拝見!今日は栄一と千代の青春譚、胸熱な展開だった。タイトル「青天を衝け」を回収する画期の回であり、かつ政治ドラマとしても、慶喜を軸にした通商条約や将軍継嗣の問題が巧みに織り込まれ、たくさんの登場人物がうまく整理されて配され、ドラマとして秀逸だった。
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今回、特に印象に残ったのが、家定と直弼の「出会い」もさることながら、一橋慶喜が美賀君に将軍になりたいかを問われたところ。慶喜が将軍継嗣問題に巻き込まれ、最後の将軍に就任する未来が暗示され、このエピソードを回収する回が楽しみになった。草彅慶喜の憂いある表情が良かった(^^)
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老中阿部正弘(1819~57)が亡くなった。天保14年(1843)に25歳で老中となると、安政4年(1857)の逝去時までその地位に止まり、12代将軍家慶、13代家定の幕政を統括した。阿部は生前、体調不良も相俟って、外交に積極的な堀田正睦に老中首座を譲っていた。
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堀田正睦(1810~1864)について、日本大百科全書によると、幕末の幕府老中。下総国 (千葉県)佐倉藩主。幼名は左源次。初名正篤。相模守のち備中守を称し、見山と号す。文化7年8月1日、正時の末子に生まれる。1825年(文政8)佐倉藩11万石の家督を継いだ。
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堀田正睦は1834年(天保5)寺社奉行、1837年大坂城代を経て1841年老中となり、水野忠邦天保の改革に参与、1843年辞職して帰藩し藩政改革に尽力。社倉の建造などの農村対策や藩士教育を重視し、蘭学を取り入れて西洋医学を興すと共に、洋式兵制を採用して「蘭癖」と評された。
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1857年、堀田正睦は将軍に謁見したハリスとの会談により通商条約締結を決意し、諸大名に諮問を行うとともに、通商条約の勅許によって諸大名の反対を抑えようと、1858年上洛した。勅許工作は失敗して江戸に帰り、将軍継嗣問題では、朝廷に信任のある一橋慶喜を推し、朝幕の和解を期した。
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しかし、突如、井伊直弼が大老に就任したために、堀田はこれも失敗し、日米修好通商条約の調印がなるのを待って罷免され、さらに違勅調印の責を負わされて隠居に処された。その後、1862年(文久2)老中在職中の外交取扱不行届の廉で蟄居を命じられた。元治元年3月21日没。
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阿部・堀田が仕えた徳川家定(1824~1858)について、日本大百科全書によると江戸幕府第13代将軍で12代将軍家慶の第4子。幼名政之助、初め家祥。ペリー来航直後の1853年(嘉永6)7月家督を継ぎ、10月将軍宣下。内外多難であったが、病弱で老中阿部正弘らに政務を一任した。
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1857年(安政4)10月、徳川家定が米国総領事ハリスを江戸城中に引見したことは、後にハリス『日本滞在記』で広く紹介された。実子がなかったために、後継者を巡って将軍継嗣問題が起こり、また日米の通商条約も勅許を得られず、政局が激動した。
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1858年4月、井伊直弼が大老に就任すると、紀伊藩主徳川慶福(のち家茂)を継嗣と定め、ついで6月、通商条約調印を強行し、7月、政局紛糾のなかに病死した。法号温恭院。ちなみに、ドラマでは登場しない家定の生母は本寿院。江戸幕府の12代将軍・徳川家慶の側室であった。
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本寿院は、文政7年(1824)に13代将軍徳川家定の生母となった。他にも2男児を出産しているが、いずれも早世した。本寿院は落飾後の院号、実名は美津、堅子。人となりについて、特段のエピソードはないが、水戸斉昭一橋慶喜父子を嫌っていたことは間違いない。
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天璋院篤姫(1835~1883)について、日本大百科全書によると徳川13代将軍家定の正室。名は篤子(あつこ)、のち敬子(すみこ)。通称篤姫。幼名は於一(おかつ)。幕府の消滅に立会い、徳川本家廃絶・江戸城武力攻略の回避に力を尽くし、明治期には徳川本家の家格・家名の維持を目ざした。
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篤姫の父、島津忠剛は島津家家臣のうち最上級とされる「一門家(四つの分家)」の一つ、今和泉島津家(石高1万3000石)5代目。幕府は11代将軍家斉に1789年(寛政1)嫁いだ島津重豪の娘茂姫にあやかって、家定の室を島津家からめとりたいと、島津藩世子の斉彬(後の11代藩主)に打診。
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その候補として今和泉島津家の於一が選ばれた。於一は斉彬の養女となった。さらに右大臣、近衛忠熈(1808―98)の養女として、1856年(安政3)家定との婚儀が行われ、御台所となった。次期将軍に慶喜を望んだ一橋派・斉彬の懇請に従ったが、周囲に反対され実現できなかった。
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繰り返すが、安政3年(1856)12月に家定に輿入れするが、その発端は、11代将軍家斉・茂姫(薩摩出身)の長命や子孫繁栄にあやかりたいという、家定本人の強い意向があったからで、本寿院が、家定に篤姫を強く勧めたためではなく、また、斉彬からの要望でもなかった。
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家定が1858年に没すると落飾して天璋院の号を得、従三位に叙せられる。その後大奥の取締りにあたる。1867年(慶応3)15代将軍慶喜が大政を奉還すると、徳川家の存続と官軍の江戸城攻め回避のため、静寛院宮(和宮)らとともに尽力した。
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篤姫は1868年7月、官軍に反発、奥羽越列藩同盟に官軍討伐を願った。その後一橋邸、紀伊藩邸、尾張藩邸、相良藩邸と移り、徳川16代当主家達のいた徳川千駄ヶ谷邸で過ごし、1883年(明治16)11月20日、満47歳で没した。
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篤姫は、徳川家処分の際に位記を剥奪されていたが、従三位に復し、上野の家定の墓域に埋葬された。篤姫というと、宮崎あおいのイメージが強いが、上白石萌音も好演では(^^)
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前回からはハリス(1804~ 1878)が登場した。安政3年(1856)7月、通弁官ヒュースケンとともに日米和親条約で開港された下田に上陸し、玉泉寺を総領事館と定めた。そして、直ちに出府を希望し、江戸での通商条約交渉を開始したいとの意向を示した。
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ハリスは、イギリス使節バウリングが来航する前に米国と条約が締結されていれば、それ以上の内容を要求しないことを明言。そうなれば、イギリスとの交渉で武力に屈したため、通商条約を結んだという不名誉を被らず、更に、イギリスと戦争になれば、蝦夷地は領有されるとの見解も示した。
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ハリスは、自由貿易による利益の大きさを説くことも忘れていなかった。当時のイギリスは、世界中に植民地を持つ日の沈まない帝国主義国家として君臨し、アジアを蹂躙する世界最強の国家として自他ともに認めていた。ハリスはことさらイギリスの脅威を強調し、交渉を優位に運ぼうとした。
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ハリスの江戸行き要請を拒み続けていた幕府であったが、ハリスが米軍艦によって出府を強行する事態を恐れ、ついに老中堀田正睦は、岩瀬忠震が主導する大目付・目付グループの意見を採用して出府を認め、安政4年10月14日、ハリスは江戸に到着し、宿舎に指定された蕃所調所に入った。
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安政4年10月21日、ハリスは江戸城において将軍徳川家定に謁見し、ピアース大統領の親書を呈した。家定は言葉を発する前に頭を後ろにそらし、足を踏み鳴らし、甲高い声だったとハリスは語っている。
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ちなみに、安政5年(1858)7月12日、露国使節プゥチャーチンも江戸城に登り、大将軍の名代世子徳川慶福(家茂)に謁見した。実は、6日に家定は没していたが、まだその死は公表されていなかった。
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安政4年10月26日、ハリスは堀田老中を訪ね、世界の大勢を論じて自由貿易の利点を挙げ、多くの開港場を伴う通商開始の急務を説いた。ここでも、ハリスはイギリスの脅威を強調し、その侵略主義と対をなすアメリカの温和路線を売り込むことを忘れていなかった。
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このハリスの大演説に感化された堀田老中は、通商条約の締結はやむなしとの腹案を持ちながら、幕閣に対して、主として海防掛にその対応を諮問した。回答の中でも、11月6日に認められた岩瀬忠震の老中への意見書にある横浜開港論は出色であった。
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岩瀬忠震は江戸・横浜経済圏を確立し、大坂集中の経済機構の打破を目指し、幕府が貿易の富を独占して、まずは率先して武備充実を図ろうとする富国強兵策の具体的なビジョンの一環として示し、その背景には大坂では西国諸大名による貿易を統制するのが難しいとの現実的な判断があった。
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堀田老中は諸大名にも諮問した上で、交渉を開始することを目論んでいた。しかし、堀田の意に反してこの段階では、徳川斉昭をはじめ通商条約への反対意見も少なからず存在した。堀田の逡巡によって、余りに進捗がないことにいらだったハリスは、艦隊の派遣や戦争の開始を示唆した。
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ハリスが武力を背景にした砲艦外交に転じた結果、これに狼狽した堀田老中は、12月3日に下田奉行 井上清直岩瀬忠震を全権に任じ、いよいよ通商条約の締結に向けた交渉を始めさせた。もちろん、堀田外交の推進者、岩瀬忠震が主導的な役割を担ったことは言うまでもない。
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通商条約の交渉の経緯は、岩瀬とハリスのぎりぎりのやり取りの結果、安政5年(1858)1月12日に一応の妥結が見られた。この内容で通商条約が調印されるのだが、その前段階ではあくまでも妥結案である。
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しかし、幕府独断で即時調印をせず、条約に反対する諸大名を抑えるために、堀田老中は朝廷から勅許を取ることにした。その際、将軍継嗣問題が浮上する。京都が政争の場となり、一橋派(橋本左内)VS南紀派(長野主膳)の激突となる。この間の政治事情にも若干触れておこう。
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通商条約の締結をめぐる政争を混沌とさせた要因として、13代将軍家定の後継者を誰にするのか、いわゆる将軍継嗣問題が起こっていた。将軍就任直後から、暗愚で病弱とされる家定では、未曽有の国難を乗り切れないと判断されたのである。ここに、二つの派閥が形成され、しのぎを削る。
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賢明・年長・人望の条件を満たす一橋慶喜を推す一橋派と、あくまでも血統を第一として紀州藩主徳川慶福(後の家茂)を推す南紀派である。両派の政争は、関東から京都にまで及んだ。一橋派は、阿部正弘派とも言え、阿部亡き後は松平春嶽派と言えよう。南紀派は、まさに井伊直弼派である。
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言い換えれば、一橋派は改革派、南紀は守旧派であり、その政争である。とは言え、両派はともに通商条約の勅許獲得を目指しており、堀田の京都工作をそれぞれの立場で支援した。こうした京都政局は、次週描かれるだろうか。
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しかし、朝廷への工作がなかなか思うようにいかないことから、一橋派の橋本左内らが主導して、将軍継嗣問題を中心に廷臣へ入説することに切り替えたため、俄然、一橋派と南紀派その対立がクローズアップされてしまった。
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朝廷が次期将軍を指名することなど、前代未聞であったが、両派は自派を有利にしようとするあまり、朝廷権威を取り込むことに奔走した。結果として、こうした一橋派の活動はその後の安政の大獄での処分につながってしまった。
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堀田は、当初は南紀派と目されていたが、岩瀬と行動をともにしたことから一橋派に転向した。その矢先の4月23日、予期せぬ出来事が起こった。井伊直弼が、突如として大老に就任したのだ。本日、伏線ありでした(^^) これ以降の疾風怒濤の展開は次週ですね!
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「橋公御行状記略」について、ドラマでは橋本左内平岡円四郎宅を訪れて、その完成を報告していた。実は、原作:平岡、監修:左内、広報:西郷隆盛の連携があるのだが、西郷の登場はまだ先のようで、この段階での西郷登場はなし。
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安政4年(1857)、アメリカ領事ハリスとの間に通商条約締結問題が大詰めを迎えたころ、慶喜側近の平岡円四郎が慶喜の業績をまとめて「慶喜公御言行私記」を作成、これを左内が「橋公行状略記」に監修し、春嶽が老中堀田正睦、南紀派と目される松平忠固久世広周ら幕府要人に配布した。
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西郷隆盛も大奥ルートで配布したが、その際には篤姫が仲介することになった。島津斉彬が推す一橋慶喜を何とか継嗣にしようと運動を繰り広げた。しかし、この工作の効果は見えず、かえって家定に慶喜忌避感を植え付けたかもしれない。
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有名なエピソードとして、安政4年12月14日、西郷から左内に対して「橋公御行状記略」を届けて欲しいと依頼、同日、左内は承諾の書簡を送ったが、西郷が西南戦争で最後まで懐にしていた書簡がこれ!西郷隆盛橋本左内、その絆の強さ、西郷の左内に対する思いを確認できる。
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なかなか紹介できなかった永井尚志(1816~1891)について、こちらも日本大百科全書によると、幕末の幕府官僚。幕府海軍の創設や大政奉還の起草に尽力。1816年(文化13)三河奥殿藩松平乗尹の庶子に生まれ、旗本永井家の養子となる。
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永井尚志は、1848年(嘉永1)の学問吟味で甲科上の褒詞を受ける。1853年目付となり、長崎勤務中の1855年(安政2)オランダ国王から贈られた観光丸を用いた海軍伝習の監督となる。1857年観光丸で帰府。築地に開かれた軍艦操練所を監督する。
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永井尚志はその後、勘定奉行外国奉行軍艦奉行と転じ、安政の大獄で一時失脚する。1862年(文久2)軍艦役頭取に復職し、同年京都町奉行となる。1865年(元治1)第一次長州遠征(長州征伐)で毛利氏の処罰をめぐり孤立して辞職した。
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永井尚志は、1865年(慶応1)第二次長州遠征のときに大目付に復職した。1867年若年寄格となる。坂本龍馬が暗殺される直前、永井と2回会談している。1868年(明治1)蝦夷地に渡り新政府に抵抗。1869年降伏し入獄するが、1872年赦免となった。
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永井尚志は、新政府に仕え、開拓使用掛、左院少議官、元老院権大書記官を経て、1876年退職した。1891年7月1日死去。76歳。墓は東京都荒川区の本行寺。自伝に『永井介堂君履歴稿本』がある。
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永井尚志に関連したエピソードを一つ。映画『人斬り』は、昭和44年公開の五社英雄監督による時代劇映画であり、フジテレビ・勝プロダクションの製作、勝新太郎が主演だった。私も見たが、何とも言えない怖さが漂っていた。
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映画『人斬り』は、動乱の幕末時代を舞台に、京の都を震撼させ、その名を轟かせた土佐の最強の剣士・岡田以蔵の半生を描いた歴史劇作品、司馬遼太郎の小説『人斬り以蔵』をモチーフとしている。
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映画『人斬り』で田中新兵衛役を演じた三島由紀夫の高祖父は、朔平門外の変姉小路公知暗殺嫌疑がかかった田中新兵衛が切腹してしまったことで、不注意の咎で閉門を命ぜられた、京都町奉行時代の永井尚志。そう、この永井です!!事実は小説よりも奇なりではないか。
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三島由紀夫は、「明後日は大殺陣の撮影です。新兵衛が腹を切つたおかげで、不注意の咎で閉門を命ぜられた永井主水正の曾々孫が百年後、その新兵衛をやるのですから、先祖は墓の下で、目を白黒させてゐることでせう」と語っている。
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田中新兵衛姉小路公知を暗殺した朔平門外の変については、拙稿「幕末中央政局における朔平門外の変 その背景と影響について」(『日本歴史』2007年10月号)、拙著『島津久光=幕末政治の焦点』(講談社選書メチエ、2009年)を参照ください。

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大橋訥庵(1816~1862)について、日本大百科全書によると、江戸末期の儒学者。熱烈な尊攘思想家。名は正順(まさより)、字は周道、通称順蔵。兵学者清水赤城(1766―1848)の四男として文化13年江戸に生まれ、日本橋の豪商大橋淡雅(1789―1853)の婿養子となる。
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大橋訥庵は、佐藤一斎に儒学を学び、思誠塾を開いて子弟を教授、詩文に優れた。1857年(安政4)『闢邪小言 (へきじゃしょうげん) 』を著して尊王攘夷論を鼓吹した。安政 の大獄に刑死した頼三樹三郎の遺体を収めて小塚原回向院に埋葬した。
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大橋訥庵は、公武合体論による皇女和宮の降嫁反対運動にも参加した。坂下門外の変に際し、計画の中心人物と目されて、老中安藤信正襲撃に先だって捕らえられたが、病のため出獄、宇都宮藩に預けられたが文久2年7月12日没した。47歳。伊藤博文吉田稔麿も、その塾に出入りしていた。
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【NHKさいたまアリーナ教室・オンライン講座】渋沢栄一とその時代(次回4/3)
渋沢栄一の激動の人生を紐解き、キーパーソン将軍慶喜についても迫ります!途中からの参加も可能ですので、ぜひ(^^)
https://www.nhk-cul.co.jp/programs/program_1225834.html
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【オンライン】渋沢栄一とその時代
4/3(土)「渋沢栄一とその時代② ― 一橋家仕官後から明治官僚まで」
4/24(土)「徳川慶喜と幕末政治― 将軍時代を中心に」
*いずれも10:30~12:15 
https://www.nhk-cul.co.jp/programs/program_1225834.html
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NHK青山・新講座(対面:4月スタート)「新説 坂本龍馬」最新の研究に基づいて、龍馬の生涯を紐解き、志士・周旋家・交渉人・政治家として、多様性を持つ龍馬の動向を検証し、新たな知見に基づいて龍馬の実像に迫ります。
http://www.nhk-cul.co.jp/programs/program_1139333.html
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NHK青山・新講座(対面:4月スタート)「新説 坂本龍馬」
4/17(土)龍馬の生い立ちと土佐勤王党
5/15(土)龍馬の海軍構想と第二次脱藩
6/19(土)薩摩藩士・坂本龍馬の誕生
7/17(土)薩長同盟と寺田屋事件
8/21(土)海援隊と薩土盟約
9/18(土)大政奉還と龍馬暗殺
http://nhk-cul.co.jp/programs/program_1139333.html
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JBpressで連載を開始しました。渋沢栄一と時代を生きた人々(1)「渋沢栄一①」“渋沢栄一の生涯を知れば近代日本の流れがわかる”はこちらから。ぜひ、ご覧下さい。

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JBpressの2回目、渋沢栄一と時代を生きた人々(2)「渋沢栄一②」“尊王志士として奔走!?知られざる渋沢栄一の真実”はこちらから。こちらも、ぜひ‼️

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JBpressの最新記事、渋沢栄一と時代を生きた人々(3)「渋沢栄一③」が明日29日(月)朝6時に公開されます。ご味読をどうかよろしくお願いいたします。


*日本史専攻@jhs_kenkyu 3月28日
「青天を衝け」第7話が終わりました。今日は斉昭のもとを訪れた川路聖謨と永井尚志に対して斉昭が激怒し、堀田正睦に腹を切らせろと詰め寄ったところ、数日経って慶喜に諌められるというシーンがありました。こちらの史料にも記載があります。
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1920174/170


1>桐野作人@kirinosakujin 3月28日
大河ドラマ「青天を衝け」第7回。今回は、平岡円四郎が「橋公御行状記略」を起草し、それを橋本左内が推敲し、福井藩主の松平慶永が老中堀田正睦に提出して、将軍継嗣問題が動き出す。それに伴って、一橋慶喜の動向、将軍家定と篤姫のやりとり、家定と井伊直弼の接近などが面白かった。
2>
老中阿部正弘が他界した。老中首座と肩書きが出ていたが、堀田正睦に首座は譲っているはず。阿部は篤姫を将軍御台所にするのにも骨折りした。ただ、ドラマで匂わせたほど一橋慶喜を将軍継嗣にするのに積極的だったかは不明。むしろ、島津斉彬の打診に対しては「時期尚早」だと答えている。
3>
福井藩主の松平慶永は安政3年(1856)、尾張藩主の徳川慶恕(のち慶勝)への書簡で英邁な一橋公を西ノ丸に入れて将軍継嗣にすべきだと主張しており、以後、その線で動いている。橋本左内を通じて平岡円四郎に「橋公御行状記略」を書かせたのもそのためだった。
4>
一方、島津斉彬が篤姫を将軍家定御台所にしたのは、家定が子どもができない体質を知ったうえで篤姫を通じて一橋慶喜の将軍継嗣を有利に進めようとしたとされてきたが、近年はそうでもない。まず篤姫の大奥入室を徳川家側である。次に斉彬は家定と篤姫に子どもができる期待をかけていた。
5>
島津斉彬は盟友の松平慶永に宛てた書簡で「将軍と篤姫の仲が睦まじいから、大奥ではご実子の誕生を心待ちにしている。こういう時期に継嗣問題を持ちかけるのは都合がよくない」と慶永に自重を促している。もっとも、斉彬もその後、篤姫を通じて一橋慶喜を家定に推挙させようとしている。
6>
しかし、篤姫は乗り気ではなく、斉彬からの指示を鬱陶しく思っているようだと、篤姫付きの老女幾島が斉彬に報告している。篤姫は家定との幸せを優先しようとしていた。だから、ドラマで篤姫が将軍継嗣問題に誘導するような場面は少し違和感があった。
7>
ドラマでは将軍家定が一橋慶喜と松平慶永を嫌いだと口走る場面があった。慶喜に対しては事実のようだ。家定の側近で側用御用取次の朝比奈閑水がそれとなく慶喜のことを尋ねると、家定は「刑部卿様(慶喜)はお気詰まりにてお嫌いなり」と答えたという。
8>
その理由を朝比奈は、家定は自分の外見にコンプレックスをもっており、大奥でもてはやされる慶喜に「大いにご妬心あらせられば」とイケメンの慶喜に嫉妬していたという。一方、将軍継嗣問題で慶喜のライバルとなった紀州慶福(のち家茂)には、だいぶ年下で「御子様の如し」と好感を抱く。
9>
その理由を朝比奈は、家定は自分の外見にコンプレックスをもっており、大奥でもてはやされる慶喜に「大いにご妬心あらせられば」とイケメンの慶喜に嫉妬していたという。一方、将軍継嗣問題で慶喜のライバルとなった紀州慶福(のち家茂)には、だいぶ年下で「御子様の如し」と好感を抱く。
10>
慶喜が美賀君から将軍になるつもりはあるのかと尋ねられて「一橋さえ持ちこたえられる器量がないのに、天下は取れない」と答えた。これは美賀君に対してではないが、慶喜がそう答えたのは事実。相手は父斉昭に対してで、江戸城中で養君の話題が出たら否定してほしいと依頼したときの言葉。
11>
大河ドラマ「青天を衝け」第7回。ドラマ進行時点は安政4年(1857)、渋沢はまだ18歳。従姉妹の千代と縁組するのは翌5年12月。渋沢の従兄の尾高長七郎が江戸へ出て、攘夷家の儒者大橋訥庵の門を叩いた場面があった。訥庵は宇都宮藩士で、水戸斉昭に攘夷決行を迫る意見書も出していた。
12>
尾高長七郎は長州の久坂玄瑞、多賀屋勇、薩摩の中井弘、伊牟田尚平、庄内の清河八郎などと交流している。渋沢も江戸に遊学に出ると長七郎の人脈とつながっていく。長七郎はその後、老中安藤信正を襲撃する坂下門外の変に関わっていくことになる。

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