藝藩志・藝藩志拾遺研究会

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仙台口征討軍 岩城平 慶応4年7月17日「只戦闘の多くして且つ攻撃の困難なる方面に向はん事を願ふ」

2019年07月14日 08時14分09秒 | 芸藩志第九部 戊辰戦争
<芸藩志第18巻@123巻>…一部を書き出し…
〇七月五日朝川合三十郎加藤種之助等は全隊を以て江戸を発し銚子港に向ふ千住駅に小憩し松戸駅に午餐し小金駅に至り宿営す
〇七月六日朝全隊は小金駅を出発我孫子駅にて午餐を喫し午後申の刻取手駅より乗船して刀根川を下る翌八日銚子港に着船揚陸して運輸汽船の来るを待つ然るに九日に至ると雖汽船の来り迎ふる無し且つ軍期を誤らん事を恐るるを以て明十日を以て再ひ刀根川を遡り常州鹿島に至り夫より順次平潟港に陸行する事に決したり
〇七月十日全隊は船を僦ひ刀根川を遡り午後申の刻常州鹿島に着し宿営す
〇七月十五日朝出発午後申の刻平潟港に着す到れは則ち一昨十三日岩城平城の陥落を聞き挙隊遺憾とする所なり…督府より平潟守衛の令ありしは此時賊将榎本釜次郎等は石巻港に停泊して時々軍艦を派遣して当平潟港を襲撃するに備ふるか為めなり然れとも我兵は斯る閑地を守衛するは頗る本志に背く所なるを以て兵を平潟付近に屯し各所を守衛せしめ而して同十七日残兵を以て岩城平に至り督府の参謀に迫り戦地に差遣の命ある事を請求せり再ひ命あり本隊を以て三春口警衛を為さしむ是に於て益々戦地へ出兵の事を請求し曰く我兵は兼程急行して此地に来る将に岩城平城攻撃に会せんとするか為めなり而して及はす遺憾已む無し願くは是より進軍に際せは我兵を以て毎戦先鋒たらしめん事をと参謀木梨精一郎曰く今や進軍部署二道あり一は是より白河へ進軍するあり一は浜街道より仙台へ進むあり皆各所の賊兵を撃破して斉しく会津に会し大挙して若松城を陥落せんと欲する所なり知らは只戦闘の多くして且つ攻撃の困難なる方面に向はん事を願ふと精一郎曰く諾夫れ白河口は会津を距る頗る近し而して浜街道は否らす路程已に遠長にして賊軍要地に拠る而して相馬城を取り仙台城を陥れ而して後に会津に進入する所なるを以て其戦や多数にして其攻撃や激烈苦戦に渉るを知る今吾も亦之れに向はんとす尊藩も此道に向ふへしと我曰く諾只速に進撃の命あるを請ふ所なりと


此時、生存隊員292人(程度不明の為、参戦不能な傷病者を含む)
※この記事の全文は2019年8月中に発刊予定の
『芸藩志 第十八 復刻活字版』でご覧いただけます。

★川合三十郎=川合鱗三(芸藩志編纂責任者の一人・神機隊参謀)
      …総督黒田益之丞が京都で引き抜かれた為、実質隊のトップの一人。
★加藤種之助=一番小隊長
 *弟は内閣総理大臣加藤友三郎、父は新政府綱領八策草案に参画
★榎本釜之助= 榎本武揚 


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