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「青天を衝け」(19)がより面白くなる 町田明広先生の解説 6/20

2021年06月20日 21時58分46秒 | 大河ドラマ「青天を衝け」がより面白くなる話
「青天を衝け」(19)「勘定組頭 渋沢篤太夫」
内容:
篤太夫の本領発揮!
篤太夫は一橋領の木綿の販売手法を変え
商品の価値を高める事に成功。
更に紙幣の流通にも取り組む。
その成功が認められ勘定組頭に抜擢される。
一方、薩摩では欧州から帰国した五代才助が
大久保一蔵と密談を交わしていた。
ついに幕府は2度目の長州征伐へ・・・
しかしひそかに薩長同盟を結んだ長州を前に、幕府は大苦戦。
そんな中、大阪城で指揮を執る家茂が倒れる。
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③関連史料 史料(デジタル史料含む)

1>町田 明広@machi82175302 2021年6月13日
本日は「青天を衝け」19回目です。今回も可能な限り、地上波放送後、感想やミニ知識をつぶやきますので、よろしければご一読ください(^^) なお、あくまでも個人的な見解ですので、ご理解いただける方のみ、お願いいたします。 
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「青天を衝け」19回目を拝見!一橋家の財政を支える立場に立った栄一の大活躍と、常に行動を共にした成一郎との路線の分岐点が熱い思いと共に描かれた。個人的なハイライトは、通商条約の勅許問題。幕府の専断、老中の罷免、家茂の辞職、過去ここまで描写された大河を知らない。感動した!!
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ドラマは私の想像を超えて、アップテンポで進んでいる。通商条約の勅許、幕長戦争の開戦が画期となっているので、その辺りの事情から。慶応元年(1865)5月16日、征夷大将軍徳川家茂は長州藩征討のため、陸路江戸城を進発した。 
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そもそも、第一次長州征伐薩摩藩西郷隆盛の主導によって、一戦もせずになし崩し的に解兵に持ち込まれたことに対し、幕府は大いに不満を持っていた。そこで、藩主毛利敬親・広封父子および五卿を江戸に召還し、処分を下すことを画策したが、朝廷の反発を招いてその構想は頓挫していた。 
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将軍の進発に対する反対意見が幕閣の主流であったが、この現状を打破するためには、それしか選択肢が残されていなかった。家茂は慶應元年閏5月22日に入京・参内し、朝廷・孝明天皇に対して、進発の事由を次のように述べている。 
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家茂は、「毛利大膳儀、昨年尾張前大納言迄悔悟伏罪之趣申出候処、其後激徒再発ニ及ヒ、加之私ニ家来外国へ相渡大砲小銃等之兵器多分ニ取調、其上密商等如何之所業確証モ有之候ニ付、進発仕候事」(『孝明天皇紀』5)と言上した。「激徒再発」は高杉晋作の功山寺挙兵に始まる内訌戦を指す。
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また、後半の部分は大村益次郎による上海での武器購入等の嫌疑を指している。この言上に対し、朝廷から家茂に大坂城に留まり、一会桑勢力と協力の上、国家太平の策を至急実行すること、具体的には、長州藩処分を諸侯の衆議に諮って言上せよとの勅語が伝えられた。 
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こうして、家茂の滞坂は大義名分を持ち、江戸・京都に分断されていた幕府機構は、畿内政権とも言える政治体制を採るに至った。家茂は閏5月25日には大坂城に入り、それ以降、幕兵に対し練武に励むことを命じた。 
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大坂玉造講武所において鎗・劔・砲術等を調練させ、家茂自らが幕兵や諸藩兵の閲兵をしばしば行うなど、士気の維持に努めた。しかし、家茂の大坂入城から3週間ほど、幕閣は大坂に一堂に会しながらも、協議らしい協議は行わず、全く長州征伐に対する方針を示さなかった。 
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幕府はこの間、日数をただ無為に重ねており、駐屯兵は無聊(ぶりょう)に窮(きゅう)し、しかも猛暑のため病死するものが続出する忌々しき事態に陥っていた。これは、そもそも長州藩処分について、意見の調整などする必要を感じていなかったからだ。 
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幕府の目論見は、将軍進発の報に接した長州藩はその威光に屈して、直ぐに服罪の使者を派遣するものと踏んでいたからに他ならない。進発はしたものの、当初から武力発動に消極的であったことは否めず、幕府権威のさらなる失墜を招く結果となった。 
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さて、今日はどこにポイントを置こうか迷う回であった。やはり、通商条約の勅許問題将軍家茂の辞職問題だろう。やや細かいのですが、よろしければお付き合いください。
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元治元年(1864)8月の四国連合艦隊による下関砲撃事件後、長州藩と講和を成立させた英国特派全権公使オールコック・仏国全権公使ロッシュ・米国弁理公使プリュイン・蘭国総領事ファン・ポルスブルックは、善後処置について幕府と折衝を行った。 
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そして、9月22日、若年寄酒井忠績 と横浜で4箇条の下関事件取極書を協定し、償金300万ドルを支払うか、下関または瀬戸内海の適当な他の一港を開港するかを取り決め、翌元治2年3月、四国使臣に対し、取極書による瀬戸内海での開港が困難である国情を述べ償金を支払うことを通知した。 
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長州征伐等による財政難から、第1回分(50万ドル)を6月に支払い、第2回分の支払を1年延期して残金は取極書の通り、3ヶ月ごとに支払う旨了解を求めた。パークスらは連署して、第1回分50万ドルを領収すること、第2回分支払延期の要求は本国政府の判断を待って回答することを幕府に通達した。
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英国政府は、オールコック後任の代理公使ウインチェスターの提案に基づき、賠償金300万ドルのうち3分の2を放棄する代わりに、大坂・兵庫の早期開市・開港、通商条約の勅許、輸入関税の引き下げを3条件とすることとし、仏・蘭・米政府の了解を得た。
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そこでパークスは、将軍家茂が「ミカド」がいる京都に近い大坂におり、5人の老中の内4人が随従する今が絶好の機会であるため、大坂湾まで艦隊を率いて乗り込み、英国提案の3条件で交渉することを主張した。最初は渋っていたロッシュも歩み寄ったため、9月11日には四国代表間で同意を得た。 
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9月13日、パークスらは3条件を要求するため、軍艦9艘(英5艘・仏3艘・蘭1艘)を率いて横浜を出帆し、16日に兵庫沖に至り、同日、パークス、ロッシュはそれぞれ通訳官シーボルトカションらを大坂に派遣し、来航の趣旨を幕府に告げて応接の期限・場所を協議することを求めた。 
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そのため、9月19日に京都から老中格小笠原長行が赴いたところ、通訳官は7日以内に3条件の諾否を求めたが、小笠原は老中阿部正外が不在であるとして、21日の英艦上での会見を約束するに止まった。18日、所司代松平定敬は外国軍艦九艘が来航したが速やかに退帆するよう取り計らうと奏聞した。 
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そして、9月23日には阿部老中・外国奉行山口直毅らは兵庫沖に到り、四国代表と会見した。その席で四国代表は3条件を開示し、速やかな回答がなければ上京して朝廷に要求すると迫った。阿部は税率の改正以外は、将軍の独断では決められないとし、26日を期して確答することを約束した。 
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9月25日、家茂は幕閣を集めて善後策を協議したが、阿部および老中松前崇広は四国代表の上京を恐れ、兵庫開港を主張したため幕議は遂にそれに決した。他方で幕府は、大坂滞在中の諸侯および有司に対し、一役一人を登城させることを命じた。つまり、形ばかりの衆議を尽すポーズを取った。 
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ここで、家茂が将軍辞職を願い出るという、予期せぬ大事件が勃発する。9月24日に家茂から至急の上坂を命じられた慶喜は、26日に大坂城に登城して兵庫開港という幕議決定をご破算にすることを迫った。その上で、慶喜は改めて将軍が上洛して勅許を奏請することを求めることを提議し決した。 
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しかし、これ以降、朝幕間は意思疎通を欠き、9月29日、府に阿部正外・松前崇広両老中の官位を奪し、藩地において謹慎させ、後命を待つことを命じた。10月1日、幕府は両名に罷免謹慎を命じたものの、朝廷が直接、幕府人事に介入することは前例がなかったため、大坂城中は大いに動揺した。 
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家茂は、将軍辞表および条約勅許・兵庫開港を奏聞した。翌10月2日、幕府は家茂の軍職を慶喜に譲り、明日大坂を発して伏見を経て帰府する旨を布告した。この将軍辞意に対し、近衛忠房正親町三条実愛は東帰を認めるべきであると主張したものの、二条関白朝彦親王は反対した。
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結局、朝廷は10月3日に請願を拒否し、二条関白は家茂の東帰を停め、4日に自ら参内して事由を奏聞せよと、松平容保を通じて命じた。一会桑、つまり慶喜・容保・定敬は伏見において家茂を説得、それに応じた家茂は二条城に入った。 
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同日、朝議が開かれ、慶喜は外交交渉の切迫の情態を弁解し、兵庫先期開港は差し置き、条約勅許をひたすら懇願した。これに対し、近衛忠房薩摩藩の主張に沿って諸侯会議を提唱して、四国側に期限延長を迫ることを求め、二条関白も勅許は不可であると明言した。 
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しかし、慶喜は勅許がなければ外国と戦争になり、皇国は焦土となると応対したため、形勢は勅許止む無しに傾きつつあった。しかし、その後の朝議においても、なお容易に決定を見なかったため、慶喜は外国勢力に勝てるはずもなく、幕府の滅亡のみならず、国家存亡の危機であると迫った。 
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慶喜は繰り返し速やかなる勅許を断固として求めたため、5日夜に入って叡断があり、兵庫開港は不可としたものの条約は勅許となった。安政5年(1858)の通商条約調印以来、我が国を未曽有の内乱状態に陥れた条約勅許問題は7年の時間を費やして、ようやく決着に至った。 
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それにしても、通商条約の勅許問題がここまで描かれたことに、スーパー感動しました。
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ちなみに、大久保利通が福井まで行って松平春嶽に上洛を求めたのは事実。今日は、このあたりの状況は端折りますが、橋本左内が国家構想を語る場面が回想で登場。胸熱。
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それでは、主役である渋沢栄一のこの間の動向を追っていこう。元治元年9月、渋沢は関東での募兵を終えて上京した。渋沢が留守をしている間に、一橋家仕官の恩人である平岡円四郎は側用人番頭を兼務、5月に一橋家家老並となり、6月2日に慶喜の請願により太夫、近江守に叙任した。 
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しかし、平岡円四郎は6月16日に在京水戸藩士江幡広光、林忠五郎らによって暗殺された。渋沢は大いに落胆悲憤したものの、黒川嘉兵衛が代って一橋家の主席用人として渋沢を平岡同様に処遇したため、渋沢もまた発奮して職務に精励した。 
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渋沢栄一は元治元年9月に上京したため、禁門の変時には京都に不在であった。そして、同月末、御徒歩(俸禄8石2人扶持、在京月手当金6両)に昇進した。12月、天狗党の乱の残党浪士は武田耕雲斎らに率いられ、慶喜を頼って西上を開始。幕府の方針は賊として討伐することに決した。 
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朝廷も幕府も、松平容保さえも、水戸出身の慶喜が天狗党と合体するのではと警戒したため、慶喜はその嫌疑を察し、禁裏守衛総督として諸藩兵を率いて大津へ出陣した。渋沢も出陣し、常に黒川に随従して陣中の書記役を担当した。 
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武田耕雲斎藤田小四郎らは水戸藩出身の慶喜と争う気は毛頭なく、救解の訴願が無謀の策であることを悟り、12月17日に加賀藩に降伏した。そして、慶喜の命令で加賀藩は武田らを敦賀に禁錮した。翌慶応元年(1865)、若年寄田沼意尊が幕命を奉じて上京した。 
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田沼意尊は2月4日から23日にかけて武田以下350人余を斬首、450余人を流罪・追放した。渋沢は「小四郎氏を助けたいと、蔭ながら頻りに心配は致して見たが、実際上何等力の施しやうもなくして、恨を呑んで傍観したので、終に小四郎氏と幽明相隔つることに成った」(東湖会講演集)と述べる。 
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渋沢栄一は、「肥後の上田久兵衛なんて連中に「何だ貴様『うちの君公は』と自慢するがあのざまは何だ」つて云はれてね、口惜くつてしようがないけれど、マ一言もなくて、で歩兵募集のことにやつきになりはじめたのさ」と、在京の各藩周旋方と厳しい対応を迫られていた。 
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渋沢はこの出陣を通じて、「つくづく何しろ御手元に兵力がなくちや何と思つても何も出来ない」と悟った。中央政局における一橋家の微妙で危うい立ち位置の中で、渋沢は肥後藩の上田らの手練れの周旋家に伍しながら、嫌疑を受ける慶喜のサポートに奔走していたのだ。 
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慶応元年1月15日、渋沢は謹厳に務め、上司の深く信任するところとなり、小十人並(俸禄17石5人扶持、在京月手当金13両2分)に昇進した。御目見以上となり、御用談所調方出役を兼務することになった。 
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慶応元年2月下旬、渋沢は一橋家の微弱な兵力を憂慮し募集方を志願し、歩兵取立御用掛を拝命した。そして、3月になって備中・播磨・摂津・和泉4ヶ国の一橋領を巡廻し、兵450名以上を募集して帰京した。 
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渋沢栄一は率いてきた兵士を大徳寺に止宿させ、訓練を施して兵制組立に尽力したため、褒賞(白銀5枚、時服)を受け、面目躍如となった。後に次女琴子の女婿となった阪谷芳郎の父、儒学者・漢学者の阪谷朗廬を訪ねて時勢談など交換した。 
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渋沢栄一は阪谷朗廬を「攘夷派ばかりの漢学者の中で、断固として開港主義を貫き、反対攻撃を受けても自説を変えなかった、真に先見の明ある人」と賞讃しているが、後年になって、明治政府への阪谷仕官に尽力することになる。 
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慶應元年4月23日、渋沢栄一は学問所俗事役兼務を拝命したが、8月(日付未詳)に御役御免となり、8月19日、定組頭並を拝命して御用談所出役と兼務となった。御用談所に籍は置くものの、財政面の専任となった。
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一方で渋沢喜作(成一郎)は軍制所調役組頭を拝命し、渋沢は財政面、喜作は軍事面と方向性が、以後は別行動を取ることになる。ところで、渋沢は財政に専従するにあたり、一橋家の財政充実を企図して、財政再建策として3策を建言し、それが承認されている。 
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渋沢栄一の3策とは、①年貢米販売先の変更:播磨から徴収する年貢米は上質、従来は兵庫の米市場で委託販売。酒造米として上質米を渇望する灘や西宮の酒造業者に高価で直接売却、②木綿の専売制施行:播磨は白木綿の産地、特産品だが非専売制。専売制を導入して大坂で販売、高い利益を獲得、 
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残りのもう1策は、③硝石製造所の設立:備中は火薬の原料である硝石を豊富に産出。需要が拡大していたため、領内に硝石製造所を設けて販売、売却益は財政に貢献、の3策であった。血洗島での経験が無ければ、豪農出身の渋沢栄一ならではのプランである。 
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その実行のため、慶応元年秋、渋沢栄一は勘定組頭(俸禄25石7人扶持、在京月手当金21両)に昇進している。まさに、本日のタイトル「勘定組頭 渋沢篤太夫」の誕生である。
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慶応2年(1866)春にかけて、渋沢栄一は兵庫・大阪・備中・播磨に出張した。兵庫で年貢米を酒造業者に直売し、備中に硝石製造所を設立した。そして、大坂で当初3万両程の藩札を発行して播磨での木綿の買入に使用している。 
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ちなみに、この間に「小松・木戸覚書」(いわゆる薩長同盟)の問題がある。本件については、拙著
『新説 坂本龍馬』(集英社インターナショナ、2019年)を参照。 
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五代友厚が登場した。私の視点から少々説明を再度。幼年時からその才能を高く買われていたとされるが、五代にとってエポックとなったのは、安政4年(1857)であった。五代は郡方書役に任命されたが、特に重要なのは長崎海軍伝習所への遊学であった。 
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五代はここでオランダ語や海軍技術を学び、世界に対する幅広い知識・認識を持つに至った。また、それ以降も長崎に滞在することが多く、勝海舟榎本武揚高杉晋作らと交遊し、ネットワークを構築した。中でも、トーマス・グラバーとの出会いは特筆すべきであるが、この点は後に触れたい。 
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その後、五代は藩に重用され、文久2年(1862)に舟奉行副役に就任、そして幕府艦千歳丸で上海に渡航し薩摩藩のために汽船・武器を購入した。また、文久3年には、生麦事件によって発生した薩英戦争において、風雲急を告げる情勢を察して急遽長崎から帰藩し、天佑丸船長として参戦した。 
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五代は薩英戦争において、寺島宗則と共に英国海軍の捕虜となった。五代は自発的に捕虜となっており、その目的が攘夷から開国への藩論の転換を狙ったものと解釈されてきた。しかし、五代自身が上海から戻るとすぐに久光の命を受け長崎で上海貿易に従事し始めており、その必要性は窺えない。 
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五代は潔く釈明を控えているが、おそらく、かけがえのない藩船の拿捕の責任を取り、また、情報収集もかねて居残ったものと理解したい。五代らは横浜で解放されたが、簡単に捕虜になったことから、藩からイギリスとの密通の嫌疑を受け、また幕吏にも追われることとなった。 
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五代は、こうして追われる身となり、江戸や武州熊谷での亡命生活を余儀なくされた。本日、渋沢と五代が熊谷で出会ったのはあり得る範囲である。脚本の妙に唸った。その後、寺島と別れて長崎に潜入し、ここでグラバーと再会したが、五代らはそれまでに、肝胆相照らす仲となっていたようだ。
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長年構想を練っていた富国強兵のための海外貿易や留学生派遣についての思いをグラバーに熱く語り、その構想の青写真を共同で作成することが叶った。これが「五代才助上申書」薩藩海軍史中)である。なお、薩摩スチューデントにかかわる一切の面倒は、このグラバーが見ることになる。
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五代友厚の上申書から実現した薩摩スチューデントを見ておこう。厳密に言うと、使節4名と留学生15名に大別される。使節一行の4名は、正使・新納久脩(大目付)、寺島宗則(船奉行、政治外交担当)、五代友厚(船奉行副役、産業貿易担当)、堀壮十郎(通弁、通訳担当)であった。 
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また、町田久成は留学生であると同時に、督学という留学生全体を束ねるポジションにあった。この使節の使命は、五代の上申書をベースに組み立てられたものであるが、4点に集約される。 
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1点目は、薩摩藩をはじめとする大名領にある港を外国に開き、そこで自由に交易できるように、イギリス政府に協力を求めること、2点目は、富国策を実現するために、外国市場を調査し、薩摩藩として必要な製造用機械などを購入すること。 
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3点目は、強兵策を実現するために、必要な軍艦・武器などを調査・購入すること。4点目は、将来に向けて必要な西洋知識を受容するために留学生を同行させ、現地で諸々の手配をして監督することであった。五代は2・3点目にあたる機械買い付けや商社設立などに奔走した。 
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また、寺島宗則は1点目にあたる外交交渉に心血を注ぎ、町田は4点目にあたる留学生全般を扱った。留学生は15名で、開成所から多数が選ばれている。特定の家柄、年齢からではなく、幅広く選抜されており、思想的にはあえて攘夷思想が強い上級家臣が含まれた。 
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NHK青山講座(対面)「新説 坂本龍馬」最新の研究に基づいて、龍馬の生涯を紐解き、志士・周旋家・交渉人・政治家として、多様性を持つ龍馬の動向を検証し、新たな知見に基づいて龍馬の実像に迫ります。途中からの参加も可能です。 
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NHK青山講座「新説 坂本龍馬」 7/17(土)薩摩藩士・坂本龍馬の誕生 8/21(土)薩長同盟と寺田屋事件 9/18(土)海援隊と薩土盟約 10/16(土)大政奉還と龍馬暗殺
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白鷺舎講演会「大河ドラマで語られなかった橋本左内-将軍継嗣活動を中心に-」 日時:8月1日(日) 13:00~16:00 オンライン 町田明広氏「将軍継嗣問題と橋本左内」 角鹿尚計氏 「橋本左内の道中日記を読む」 


本日の大河ドラマには、おディーンが再登場のようですね。話題を途切らせないですねえ。 
2>渋沢栄一の家は藍玉の生産・販売を生業にしていたが、薩摩にも藍玉の商いをする郷士から城下士となり、薩英戦争の講和交渉をまとめ上げたことでも知られる重野安繹(のち東京帝国大学教授)がいるな。島津斉彬が藍玉を殖産興業の品目として目をつけたことで、重野は立身の道を見つけた。 
3>
重野は渋沢とは違う形で武士となり、さらに学者(漢学、国史学)の道を歩み、わが国の近代的な実証史学の祖となった。史実を重視し、伝説を排除したので「抹殺博士」とも呼ばれた。 写真は藍玉の見本。大きさは直径6寸(約18センチ)。メロンくらいだった。 

4>
今夜の大河ドラマ「青天を衝け」。のちに渋沢のライバルという位置づけになる五代様が2回出演場面あり。ひとつは薩摩藩の英国使節兼留学生派遣の一員として渡欧したとき、全権の新納刑部(大目付、写真)と富国挙兵策のため、フランス貴族のモンブランとの提携を成功させようとしていた。 
5>
薩英戦争で捕虜になり、その後、武蔵国熊谷に潜伏していた五代様と松木弘安は家老の小松帯刀からひそかに上海渡航を勧められるが辞退。おそらく小松らの尽力で赦免となった。その背景には薩摩藩が京都の一会桑勢力と対抗するため、自立割拠の藩是を定め、富国強兵策に転じたことがあった。 
6>
赦免された五代様はすぐさま、英国使節兼留学生の派遣建白した。この派遣は英国留学生のほうが脚光を浴びているが、藩力強化の目的がむしろメインだった。五代様の建白書に多数の目的あり。①上海貿易の利益、②砂糖製造機械20台の購入、③英仏留学生16名派遣、④軍艦2隻の購入、 
7>
⑤新式大砲(アームストロング砲など)50門購入、⑥銀銭製造機械2台購入、⑦農業耕作機械購入、⑧農業用ポンプ購入、⑨銃砲用の火薬製造機購入など多岐にわたる。留学生派遣はこれらの目的のひとつにすぎなかった。しかも、派遣費用を含めて、膨大な資金が入り用だった。 
8>
五代様の建白書が優れていたのは、これらの計画の裏付けとなる財源まで具体的に明らかにしたことだった。ドラマの場面の場所はおそらくベルギーではないかと思われる。五代様は薩摩藩とモンブランとの間に、ベルギー政府を証人とした貿易商社(=カンパニー)設立の契約書を交わしている。 
9>
この貿易商社の契約で、五代様は新たに砂糖製造機械、紡績機械、修船機関(ドック)、河川浚渫機関、飛脚船、テレグラフ(電信)、異色なところでは動物園の設置も考えていた。このうち、かなりのものが実現している。写真は五代様が長崎に作った小菅修船場(ソロバンドック)。

10>
五代様はモンブランとの提携で「商社合力」という共同出資による事業法を学んだ。一方、渋沢も明治になって「合本主義」を実践するが、共通点が少なくない。 五代様のもう一つの場面、欧州からの帰国後、大久保一蔵と対面した。これはどちらかといえば、小松帯刀のほうがふさわしいかも。 
11>
今夜の大河ドラマ「青天を衝け」一橋慶喜編。難産の末の安政条約の勅許獲得、薩長同盟の成立、第二次長州征伐、将軍家茂の死と激動の展開。尺の関係で多少駆け足だったが、よく描かれていた。とくに老中阿部正外・松前崇広、それに栗本鋤雲まで登場場面があったのは、ある意味画期的か。 
12>
幕末期でもこの時期が幕府には正念場、胸突き八丁だった気がする。慶応元年(1865)9月、英仏米蘭の4カ国艦隊が大坂湾に乗り込んで兵庫開港を要求した。ドラマであったように、安政条約から7年たっても兵庫だけは京都に近いという理由で開港が延期されていた。応接したのは老中阿部正外。 
13>
4カ国は砲艦外交を展開し、「万一幕府において即時に承諾しないなら、入京して直ちに朝廷の承諾を受ける」と主張(『続再夢紀事』)。圧力をかけられた阿部らは無勅許での兵庫開港を約束した。怒ったのが在京の慶喜。急ぎ大坂まで下り、「戊午の密勅の騒動を忘れたか」と阿部らを叱責。 
14>
慶喜は井伊大老の違勅調印が念頭にあり、朝幕の協調体制を守ろうとした。一方、朝廷では阿部と松前の2老中に官位剥奪と謹慎を命じた。老中は幕府の職制である。朝廷がそれに介入したのだから、幕府側の反発も大きかった。将軍家茂はこの騒動に弱気になったのか辞意表明した。 
15>
従来、家茂の辞意表明は2老中罷免に抗議してのものと言われていたが、必ずしもそうではないらしい。老中罷免の急報が大坂に届く前に家茂は辞意表明しているそうだ。将軍が辞意表明までしたので、大坂の幕臣たちは慶喜謀叛だと激高、襲撃しようという動きまであった。 
16>
慶喜は追い詰められた。のちに生涯3度死を覚悟したうちの一つだと回想している。慶喜は急ぎ参内して、何としても条約勅許を得ようとした。一方、薩摩藩は有力諸侯を召集してその合意をもって朝命による条約勅許を主張した。いわば、幕府から外交権を奪う棚上げ論である。 
17>
慶喜は内に敵対する幕臣、外に薩摩藩の策動と窮地に陥ったが、ドラマでは若干ニュアンスが違ったが、徹夜までして孝明天皇から条約勅許を得た。このとき、深夜退出しようとする公卿たちに「国家の重大事に退散しようとする者は許さない」と脅迫した。
18>
さらに慶喜は「条約勅許が得られないと自害する覚悟だが、そうなれば私の家臣が黙っていないだろう」とダメ押ししている。まさしく「剛情公」だった。 慶喜の踏ん張りにより、安政条約は勅許となり、箱館・横浜・長崎の3港が開かれた。ただし、兵庫のみは不許可。 
19>
これで安政年間からの重要な懸案だった条約勅許が成立した。国内分裂の最大の要因だった「奉勅攘夷体制」が解体されて開国が確定したのである。こうして公式には攘夷が国政レベルの政治課題ではなくなった。 慶喜の貢献は大きかったが、その代わり多くの政敵をつくることにもなった。 
20>
個人的には、老中阿部正外と松前崇広による無勅許での兵庫開港というやり方はそんなに筋悪だったのかなという気がする。朝廷による勅許政治から離脱し、幕府による政令一途体制の再構築は不可能だったのだろうか。それほど幕府は朝廷の権威なしには国政を運営できなかったのだろうか? 
21>
考えてみれば、老中阿部正外は慶応元年2月に老中本荘宗秀とともに兵3000による率兵上京で、慶喜の江戸帰還と京都制圧を狙う一種のクーデターを画策したことがあった。その成算は果たしてなかったのだろうか。このあたりが幕府の岐路であり、あるいは日本の行く末も変わっていたか。 
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大河ドラマ「青天を衝け」は血洗島村で藍玉が重要な産物、商品として描いていた。また実際、現地を訪れて藍玉の原物を見て以来、藍玉に大変興味を惹かれた。一方、薩摩藩でも藍玉生産が重要な産業になっていたことを思い出させた。薩摩藩の集成館事業は有名だが、その品目に藍玉があった。 
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島津斉彬時代から藍玉は単体よりも木綿布製造とセットだったと思われる。時代が下った文久2年(1862)、大和出身で斉彬にスカウトされた蘭学者の石河確太郎は関西との縁が深いことから、藩営事業として大和産物会所を設立する。関西に豊富な綿を大量に仕入れて木綿布を生産しようとした。 
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その際、染料の藍玉が必要になる。関西圏では阿波国が藍玉の一大産地だった。添付した石河の口上覚えを見ると、阿波の藍玉作りには(徳島藩が)1人の生産者に給金を年30両払っているので上質の藍玉ができるという。薩摩でもそれに倣って、褒美として100両ずつ払えばよいものができる。 
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大河ドラマでも渋沢栄一が姫路近辺で木綿布をまとめて一橋家で高値で買い取る仕法をやっていたが、関西では木綿布の需要と比例して藍玉が高値で取引され、当年は前年の2倍だったという。薩摩は気候的に藍の栽培に適している。百姓に栽培させ高値で買い取れば、百姓も喜ぶ。 
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石河は薩摩と関西での産物を取り扱う藍玉方を設置して大々的な事業展開をすべきだと訴えている。 集成館事業はさまざまな製品や産物を生産した。なかでも反射炉や鉄、ガラス製品などが注目されるが、藍玉は地味な存在。でも、石河は関西出身だけに藍玉の重要性を知っていた。 
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石河確太郎は英国派遣使節に対しても英国からの紡績機械輸入を提言しており、それは鹿児島の磯紡績所と大坂の堺紡績所で実現した。石河は大政奉還の少し前、堺戎町に紡績所の敷地を確保し、明治元年7月に堺紡績所の設立掛となった。すでに明治で、紡績所は薩摩藩から明治政府の所管に。 
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その後、石河は大蔵省勧農寮に出仕し、各地の紡績所設立を指導した。富岡製糸場にも関わっている。となれば、渋沢栄一の従兄である尾高惇忠とも交流があったかもしれないが、まだ調べていない。 写真は石河が設立した堺紡績所の跡。明治天皇が行幸した。 






















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