「超凡破格の教育者・徳永康起先生」 《実践人誌「『人生二度なし』森信三の世界」より引用》
写真は令和元年6月「広島ハガキ祭り」で講演の神渡良平氏
人間のあらゆる行為の中で、一番美 しいものは、人を生かす行為である。教職があらゆる職業以上に。聖職”と呼ばれるのは、それが人を生かす行為だからである。森は一人の人物をどう育み、生かしたか。森の数多くいる弟子たちの中でも、抜きん出て大きい存在である、
熊本県八代市が生んだ超凡破格な教育者徳永康起の例で見てみよう。
徳永康起は早くから優れた教育者として注目され、最年少で小学校校長に抜擢された人である。ところが5年後、校長職では直接に子どもたちの教育に関われないからと、自ら進んで平教員となることを願い出て、子どもたちの魂の成長のため献身した。徳永は担任の子どもたちは言うに及ばず、卒業生たちともハガキでこまめに交流を続け、その成長を見守り続けた。
昭和十四(一九三九)年、二十六歳の若さ溢れる教師だった徳永は、魂が震えるほどの経験をしている。年若くして亡くなった教え子の通夜に駆け付けてみると、死の枕辺に「徳永康起先生手跡」と題した一冊のノートが置かれていた。担任したクラスの日記の末尾に、徳永が赤インクで記したものに、解説を付けてまとめたものだった。そのノートを見て徳永は、日記に添えられた数行が、その子を死の直前まで奮い立たせていたことを知って、愕然とした。以来、ますます真剣にクラスの日記に対するようになった。
『教え子みな吾が師なり』に、徳永はこう書いている。
「『つくしの記』からスタートした学級日記は、次々に題名を与えて、順調に二ヵ年続いた。子どもから抗議があったり、悲しみを訴えたり、相談ごとがあったり……。童心との生命の呼応を楽しみながら、毎日指には赤インクがつき、一語でもよいから、私のいのちのしたたりを記そうとしたのも、死の枕辺に置かれた一冊のノートが、私にそうさせたのであった」
昭和三十(一九五五)年、校長から再び一教師となり、八代市立太田郷小学校で五年五組を担任した四十二歳の徳永は、その子たちを六年生まで持ち上がり、いよいよ卒業が近付くと考えた。
「一番苦しいとき、励ましになるものは何だろうか」やはり何といっても親の励まし以上のものはない。そこで保護者に呼びかけた。
「親はわが子の寝顔を見て、そっと『〇△よ』と語りかけるものです。その語りかけを手紙にして私に送ってください。大切に保存しておいて、卒業から十年後、文集にしてみんなに送りたいと思います」
そして集まった三十一通の手紙を保管し、昭和四十(一九六五)年一月、『生命の呼応限りなきかな』と題した文集にして、二十二歳になった教え子たちに送った。文集には親からのこんなメッセージが載っていた。
「知之よ。あなたのことを思うとき、私はいつも笑顔になっている。それはいつも私たちの心が通い合っているからだ。意地っ張りで、でも働き手の知之さん。いつまでもその心を忘れずに成長してね。母」
「秀章よ。満州の酷寒の二月に、お前の産声を聞いて戸外に飛び出したのが、つい昨日のようだが、もうお前も六年生。ひ弱い体で、一人前に育つのかと心配していたのが夢のようだ。正しい心の持ち主となるよう、心身共に伸びて欲しいと切に祈っている。父」
これを読んだ教え子たちは、白分たちの背後にあった親の。”祈り”を発見して、感涙に咽んだ。徳永は子どもたちにいつもそんな励ましを送る人たった。だから卒業後も教え子たちとの絆が日増しに深くなった。
だから彼らは寄ると徳永との思い出を語り合い、それが消え去らないようにと、昭和四十五(一九七〇)年、本にして残すことにした。
書名は徳永が口癖のように言っていた言葉『教え子みな吾が師なり』から取って付け、五十万円の大金を出し合って、浪速社から出版したのだ。
森も徳永を慕う教え子たちの熱き思いに打たれ、同書にこんな序文を寄せた。
「この書は、今や戦後四分の一世紀を迎える今日、初めて出現した、真に万人の胸を打ち、その心を揺さぶる『民族教育記録』といってよいであろう。従ってこの書はまた、戦後わが国の教育界を風扉したかの無着成恭氏の『山びこ学級』、及び小西健二郎氏の『学級革命』を超える高次元に立つ成果といってよく、それ故この書は、以上の二書以上に、わが国戦後の教育的文献として、真に歴史的意義を有するといえるであろう」
徳永は実践人の家夏季研修会に毎年参加することを楽しみにし、森を「私の終生の師」と呼んで慕った。それは「私は森先生によって生かされた!」という思いが深かったからだ。人間の行為の中で、人を生かすことは最高に美しい行為だ。森はそれを徳永に対しても行い、徳永はそれを教え子たちに対して行ったのだ。