「超凡破格の教育者」徳永康起先生の人と教育

35歳にして校長職に抜擢され、5年で自ら平教諭へ降格願いを申し出、平教師としての教育人生を貫いた徳永先生の記録

校長職を辞し志願して平教師へ

2020年04月23日 | 徳永康起先生の歩み


1 理想の教育を求めて

 徳永先生の教育人生は、温かい慈悲の心で児童を育むとともに、自らの教育目標への実践力には、稀なるものがあった。

 その源流となるのは、生家徳永家の家風にあり、熊本の県北の「合志義塾」で培った「清貧にして志の高い」教育、そして実兄宗起氏のペスタロッチに学ぶ慈悲に満ちた浮浪少年たちの訓育に学んだことにある。その事を若き教師時代に自身の理想教育について心情を語られた記録がある。

 徳永先生は、県南佐敷町の代用教員錬成所に出講した際、受講生の一人吉田(石牟礼)道子と出会った。当時十六歳の吉田は、多感な少女時代の悩みを手紙に綴り徳永先生に相談していた。徳永先生は、彼女の浮浪少女を救済する慈悲の心、そして伸びやかな感性を見抜き、彼女に「私は、志の高い理想の学校を創りたい。校長先生は井上先生、そして私と彼方と幾人かの先生で、全ての児童を温かく見守り育てられるような環境の学校を…」(石牟礼道子著作「葭の渚」から引用)と自らの想いを語っておられる。その理想を如何に実現するか、常に心の中に抱かれていたのである。
 35才で校長職に抜擢され約四年を経て、日々の校長としての職務を行いながら自らの理想とする教育を実践するには限界があり、現実的に児童と校長の間には担任教師が在り、その領域は超えられない立場があることを痛感されていた。直接児童と向き合い心と心の通い合う教育を実践するには、やはり教育現場の最前線に立つ以外なしとの思いに至り、結論は、平教師に復帰する道であった。

 志を燃やして自らの決断で「平教師への降格願い」を県教育委員会に提出した。

2 森信三先生への報告

 「お叱りを受けるかも知れぬと思いますが、今月から教壇に帰ることになりました。三十余歳で任命されてから約五年、柄にもなく校長職を務めましたが、満四十歳を期して一教師に返ることを、必ずや森先生はお喜びくださることと存じます。畢竟、私の生きる道は一日八時間の子供とのふれあいにあると深く考えての事です。

 七年前に、教育者の望む最後の地位が校長であってはならぬと…… (中略) …。十一月四目の正式発令を待ってこの学校を去ります。
職員も今回の異動内報に、泣いて別離を悲しんでくれますが、ただ同一基盤に立って、その道を磨くためだということは分かってもらえるようです。

 思えば、私をして教壇復帰、学級担任教師たれ!との息吹は、芦田(恵之助)老師に発し、二月、先生のご来熊によって決したものと有り難く存じます。十五年近く教えてきた谷地の教え子達の大半も、必ずや一教師となった私を喜んでくれることと思います。

 

(森信三主幹「開顕」第65号・昭和27年12月号から抄出)


「複写ハガキの元祖」と言われた徳永先生

2015年01月24日 | 徳永康起先生の歩み
「徳永先生の書斎」

 昭和二十七年、平教諭になって八代に赴任。当初は、八代駅に近い萩原神社の社務所に仮住まいされた。半年して市内の静かな千反町に終の棲家を構えられた。家は、六畳の和室二間、八畳の応接間、三畳ほどの板張りの部屋、茶の間、そして台所と五衛門風呂があった。 
 先生は、玄関を上がって直ぐの三畳ほどの狭い板張りの部屋を書斎にされた。障子戸を引いて部屋に入ると、正面に、父から教師初任の祝としてもらった欅の机が据えられ、目の前に森信三先生の「死期を覚悟しつつ」の書と、母キカの若い頃の写真の額が掲げられていた。日々手を合わせる時に、年老いた晩年の母の写真よりも若い頃の張りのある写真の方が、安らぎを覚えるとの理由からである。机上には、直ぐ郵便の宛名を書けるように硯と筆が揃えられた。

 徳永先生の一日は、毎朝三時には起床し、冷水でさっと顔を洗って書斎に入り、正座して母の写真に手を合わせ感謝の挨拶に始まる。心静かにハガキを書き、鉄筆を握ると気持ちが「リンリン」と冴えてくる。一枚のハガキに教え子の成長を楽しみにされ、時に水彩画を挿入されたり、最も至福とされたときであった。        
                                                  
「複写ハガキの元祖」 

 森先生が徳永先生を「超凡破格の教育者」と評され、更に「複写ハガキの元祖」とも称されている。現在、広島の坂田道信先生が、複写ハガキ伝道者として長年その道を究め啓発されている。
 徳永先生は、免田十年会・井牟田大木会等の教え子に対し、早い時期から激励のハガキを書いておられた。特に戦地に赴いた教え子に対するハガキは熱き情念の発露でもあった。このため早暁から書斎に寒室寒座し、教え子・師友にハガキを書くことを日課とし、ハガキを「命の実弾」とされた。一枚一枚心のこもったハガキである。多い日は二十通を超える事もあった。

 徳永先生と教え子の心のつながりは担任の期間だけでなく、生徒が巣立った後はハガキによる激励となった。同志同友のなかには、一日一信を交わされたが、これは並大抵な気持ちで出来るものではない。また、師友間では、個人誌を発行して互いの切磋琢磨、近況報告の場とされた。この郵便物について幾つかのエピソードがある。

 一つには、郵便物が「熊本県・徳永様」等の宛名書きだけで届いたことがあった。また、郵便配達の人が「先生は封書やハガキが多く、お金が大変でしょう。」と言うと、先生曰く「いや、これを一人一人に持参したら時間も費用も莫大なものになります。私は貧乏だから郵便を利用しているのです。この方が正確で早いです。」と言って二人で大笑いされたのである。


「希望降任の志」小川直人氏(産経新聞「つれづれ花」欄から引用)

2014年10月08日 | 徳永康起先生の歩み
自ら望んで教諭に降格(希望降任という)した校長や副校長・教頭、主幹教諭ら管理職が、全国の公立小中高校で平成22年度は211人に上った。「校長から教諭」が7人、「副校長・教頭から教諭」が86人。「主幹教諭から一般教諭」が103人。健康を損なった、多忙、重責など、それぞれ理由や事情はあるのだろうが、教育現場の自信喪失を反映しているようにも思える。  
同じ希望降任でも、まるで志の違う教師が熊本県八代市にいた。徳永康起(やすき)さん(1912~79)という。
熊本師範学校を出て昭和22(1947)年、35歳で小学校長に抜擢されるが、5年後、「教え子多数を戦場でなくした償いと供養のため」に自ら願い出て一教師になった。
八代市立太田郷小学校で5年生51人を受け待った徳永さんは、卒業までの2年間、子供たち全員に日記を書かせ、その日記帳すべてに赤ペンでコメントを添えて返した。思わぬ抗議や悲しみの訴え、家庭の悩み、友達とのいさかいの相談など、感想だけではすまない内容もあり、毎日が真剣勝負。下校時までに書き終えるため休む暇もなく、徳永さんの手はいつもインクで真っ赤だった。
 学期末の通信簿には、生活態度などから見つけ出した子供たちの美点や長所をびっしりと書き込んだ紙が2、3枚ずつ張り付けられ、読んだ親はわが子への愛情あふれる記述に涙したという。
卒業後も励ましの便りを欠かさず、10年後には、さらにすぱらしい贈り物をした。卒業式が近づく頃、保護者に呼びかけて書いてもらい保管していた「わが子への語りかけ」31通を掲載した『命の呼応限りなきかな』という冊子を作り、22歳になった教え子たちに届けたのだ。
真心込めた親の祈りがぎっしりと詰め込まれた文集。「社会に出た子いとき、励ましになるものは何だろうか」と10年先を見通した見事な計らいだ。教師の資質がが問題となる今、徳永さんは改めて語るべき人ではないかと思う。(教育ジャーナリスト)平成23年11月29日火曜日