1 理想の教育を求めて
徳永先生の教育人生は、温かい慈悲の心で児童を育むとともに、自らの教育目標への実践力には、稀なるものがあった。
その源流となるのは、生家徳永家の家風にあり、熊本の県北の「合志義塾」で培った「清貧にして志の高い」教育、そして実兄宗起氏のペスタロッチに学ぶ慈悲に満ちた浮浪少年たちの訓育に学んだことにある。その事を若き教師時代に自身の理想教育について心情を語られた記録がある。
徳永先生は、県南佐敷町の代用教員錬成所に出講した際、受講生の一人吉田(石牟礼)道子と出会った。当時十六歳の吉田は、多感な少女時代の悩みを手紙に綴り徳永先生に相談していた。徳永先生は、彼女の浮浪少女を救済する慈悲の心、そして伸びやかな感性を見抜き、彼女に「私は、志の高い理想の学校を創りたい。校長先生は井上先生、そして私と彼方と幾人かの先生で、全ての児童を温かく見守り育てられるような環境の学校を…」(石牟礼道子著作「葭の渚」から引用)と自らの想いを語っておられる。その理想を如何に実現するか、常に心の中に抱かれていたのである。
35才で校長職に抜擢され約四年を経て、日々の校長としての職務を行いながら自らの理想とする教育を実践するには限界があり、現実的に児童と校長の間には担任教師が在り、その領域は超えられない立場があることを痛感されていた。直接児童と向き合い心と心の通い合う教育を実践するには、やはり教育現場の最前線に立つ以外なしとの思いに至り、結論は、平教師に復帰する道であった。
志を燃やして自らの決断で「平教師への降格願い」を県教育委員会に提出した。
2 森信三先生への報告
「お叱りを受けるかも知れぬと思いますが、今月から教壇に帰ることになりました。三十余歳で任命されてから約五年、柄にもなく校長職を務めましたが、満四十歳を期して一教師に返ることを、必ずや森先生はお喜びくださることと存じます。畢竟、私の生きる道は一日八時間の子供とのふれあいにあると深く考えての事です。
七年前に、教育者の望む最後の地位が校長であってはならぬと…… (中略) …。十一月四目の正式発令を待ってこの学校を去ります。
職員も今回の異動内報に、泣いて別離を悲しんでくれますが、ただ同一基盤に立って、その道を磨くためだということは分かってもらえるようです。
思えば、私をして教壇復帰、学級担任教師たれ!との息吹は、芦田(恵之助)老師に発し、二月、先生のご来熊によって決したものと有り難く存じます。十五年近く教えてきた谷地の教え子達の大半も、必ずや一教師となった私を喜んでくれることと思います。
(森信三主幹「開顕」第65号・昭和27年12月号から抄出)