昭和二十七年、平教諭になって八代に赴任。当初は、八代駅に近い萩原神社の社務所に仮住まいされた。半年して市内の静かな千反町に終の棲家を構えられた。家は、六畳の和室二間、八畳の応接間、三畳ほどの板張りの部屋、茶の間、そして台所と五衛門風呂があった。
先生は、玄関を上がって直ぐの三畳ほどの狭い板張りの部屋を書斎にされた。障子戸を引いて部屋に入ると、正面に、父から教師初任の祝としてもらった欅の机が据えられ、目の前に森信三先生の「死期を覚悟しつつ」の書と、母キカの若い頃の写真の額が掲げられていた。日々手を合わせる時に、年老いた晩年の母の写真よりも若い頃の張りのある写真の方が、安らぎを覚えるとの理由からである。机上には、直ぐ郵便の宛名を書けるように硯と筆が揃えられた。
徳永先生の一日は、毎朝三時には起床し、冷水でさっと顔を洗って書斎に入り、正座して母の写真に手を合わせ感謝の挨拶に始まる。心静かにハガキを書き、鉄筆を握ると気持ちが「リンリン」と冴えてくる。一枚のハガキに教え子の成長を楽しみにされ、時に水彩画を挿入されたり、最も至福とされたときであった。
「複写ハガキの元祖」
森先生が徳永先生を「超凡破格の教育者」と評され、更に「複写ハガキの元祖」とも称されている。現在、広島の坂田道信先生が、複写ハガキ伝道者として長年その道を究め啓発されている。
徳永先生は、免田十年会・井牟田大木会等の教え子に対し、早い時期から激励のハガキを書いておられた。特に戦地に赴いた教え子に対するハガキは熱き情念の発露でもあった。このため早暁から書斎に寒室寒座し、教え子・師友にハガキを書くことを日課とし、ハガキを「命の実弾」とされた。一枚一枚心のこもったハガキである。多い日は二十通を超える事もあった。
徳永先生と教え子の心のつながりは担任の期間だけでなく、生徒が巣立った後はハガキによる激励となった。同志同友のなかには、一日一信を交わされたが、これは並大抵な気持ちで出来るものではない。また、師友間では、個人誌を発行して互いの切磋琢磨、近況報告の場とされた。この郵便物について幾つかのエピソードがある。
一つには、郵便物が「熊本県・徳永様」等の宛名書きだけで届いたことがあった。また、郵便配達の人が「先生は封書やハガキが多く、お金が大変でしょう。」と言うと、先生曰く「いや、これを一人一人に持参したら時間も費用も莫大なものになります。私は貧乏だから郵便を利用しているのです。この方が正確で早いです。」と言って二人で大笑いされたのである。