「超凡破格の教育者」徳永康起先生の人と教育

35歳にして校長職に抜擢され、5年で自ら平教諭へ降格願いを申し出、平教師としての教育人生を貫いた徳永先生の記録

徳永康起少年が学んだ【合志義塾】

2022年08月01日 | 合志義塾
(以下の記事は、徳永先生が退職された後、森信三先生の命により「私が歩んできた道」と題して講演され、この内容を寺田一清先生が冊子として刊行され、その中の「合志義塾」の部分を引用したものです)

 私の一生に大きな影響を与えたのは、何としても「合志義塾」に1年間学んだことにあります。師範を受験するのに年齢が達しないため、県南の大野村から県北の合志義塾に入塾したのであります。

 今は廃校となりましたが、工藤左一・平田一十の両翁が、その全生命をかけて営まれた合志義塾という私塾であります。私はその塾にたった1年問学ばせて頂いたのですが、今でも師のお顔、お教えが脈々と生きています。いっさいの栄職を求めず、一生を育英の事業に捧げられたその熱烈な生そのものが、わたしの一生を通じて忘れ去ることのできないものになったのです。

 塾というものは塾長の徳を慕って生徒が集まる処であり、今日の学校とは全く違います。地域ごとに指定された学校に入学し、定められた教師に受け持たれるという世間一般の感激のない学校生活とは全然違っていました。
 この合志義塾は五十九年間続き、遠くは朝鮮や台湾から親子二代にわたって入塾した歴史があります。昭和25年に廃校になりましたが、この間、卒業生は6500名になります。学校令によらない私塾のため初等科2年、普通科3年を終わっても、何の資格も与えられないのに、遠くから子弟を托するというには、よほどの事がなくてはできないことであります。
合志義塾の教育は、学校教育で画一的に教師から与えられる教育とは全然違うのです。資格や卒業証書を獲得し就職条件を良くするための勉強に比べると雲泥の差があります。

 入塾の1年間、今も忘れないのは、塾長先生の「孝経・論語」の講義でした。長髭をしごきながら読みかつ説かれる口調を、今も尚ありありと思いうかべるのです。素読の楽しみを忘れることができません。板の間に長時間正座しての受講も苦になりませんでした。
 ここでは当時流行の優等生の表彰は一切ありません。ただ通告票の末尾に「その他注意」という欄があって、ここにその人物の評価を簡易に表現されます。私の場合「交友信望・洒掃精勤」と記入されていました。これは合志義塾最高の表彰とのことで、あくまで本人に示すだけで公表はされません。私の通告票にこの二項目が記入されていることを級友が見て「これはすごい事だ」と聞かされました。私自身1年間の入塾で初めての修学の通告票であり、このことを知らない私自身が大変びっくりしました。この一事が合志義塾を最も端的に語っているものと存じます。

 合志義塾の塾生にも熊本師範を受験する者が多くいました。受験といえども補習授業などは全然なく、課外は剣道で鍛え、詩吟を楽しんでいました。
 昭和2年当時は不景気のせいもあり、塾からの師範志望者は少なく36名が受験し6名が合格する状況でした。工藤塾長は「教師になるなら碁をしてはならぬ。その時間には読書するなり心身を鍛えよ!」と指導されました。そのおかげで現在に至るまで、碁石を握ったことがありません。「良師の感化は墓場まで」とは本当だと思います。
 通塾生を除き、遠隔の地から来ている者は、それぞれ下宿するわけですが、私は阿蘇郡出身の人たちと一緒に下宿しました。 ご飯は粟・芋・豆の炊込みご飯と決まっており、当番を決めての自炊生活でした。しかし副食物は各自で用意しなければなりません。同宿の人たちは土曜日に家へ帰って1週間分を用意してきますが、県南の遠隔地出身の私にはそれが出来ません。1日に梅干し1個の日もありました。 しかしそのお蔭で、今日に到るまで、ただの一度も食事のことで小言を言ったことはありません。そしてこれだけは家内からも感謝されております。

 ある時、熊本市に出張してきた父が一度だけ塾を訪れたことがありました。着物は一着で過ごしたので、さすがの父も私の姿を見てびっくりして、連れ戻そうとしましたが、私は頑として言うことを聞かず頑張り通したので父は諦め、次に、有無を言わさず熊本市内の洋服屋に連れて行き寸法を取らせました。その時の格好は今も覚えておりますが、冬だというのに青縞の単衣、よれよれの帯、素足に草履ですから、どう見ても乞食の子そっくりだったに違いありません。

 先ほど申しあげました、「交友信望・洒掃精勤」という事は、その後私の頭にこびりついて離れません。えてして学校という処は、点数さえ良ければよい生徒だと決めつけてしまう不思議な場所であります。しかしそれが果たして、人様のお子を育てる真の道であろうかと、いつも合志義塾の教育が甦って来るのでございます。 

【参考】民俗学者の宮本常一氏は自身の「宮本常一が見た合志義塾」の著書に、戦後教育と比較し「人間が全力をあげて教えようとし、また学ぼうとする場合、もっと真剣な気迫が満ちあふれ、もっと体当たり的ものがあった」と記述している。また、司馬遼太郎も「街道を行く」の第41巻に合志義塾の教育を取りあげている。