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自由が丘

2016年06月08日 05時01分40秒 | ハチパパのひとり言

自由が丘は昭和41年から5年半、銀行支店に勤めていた街で懐かしい。先月も九品仏浄真寺を訪ねた帰りに立ち寄ったばかりだ。

録画しておいたNHK-BSプレミアム「TOKYOディープ自由が丘」。番組の最初に出てきたのは「モンブラン」。昔と変わらぬ東郷青児の大きな絵が目に入る。店名通りのモンブランは、銀行で資金がよく集まったときにご褒美に出されて食べたりした。栗の甘露煮という和のテイストを取り入れ、洋菓子になじみがない日本人の舌に合わせて作られたという。ケーキを食べたことがほとんどなかった私にとって、今でも忘れられないモンブランの味である。

創業68年という古本屋「NISHIMURA BUNSENDO」三代目が登場。ライフワークは自由が丘の歴史研究だそうで、自由が丘の名前の由来を初めて知った。

もともとは碑衾村(ひぶすまむら)と言われていて、昭和のはじめヨーロッパ帰りの文化人が、この街に移り住んできて、芸術家たちが勝手に「自由ケ丘」(昭和40年自由が丘に改称)という名前をつけて本当にそのまま街の名前になったそうだ。

名付け親は舞踊家石井漠という人で、私も記憶にある名前だ。いまでもお孫さんが石井漠記念スタジオとして現代舞踊を引き継いでいる。

太平洋戦争が始まったころ、自由という文字がアメリカ的で軟弱だということで、町名変更しろとまで言われたらしいが、街の人達が自由ヶ丘を守り通したとのこと。番組訪ねびとのタレントで女優の豊田エリーさん曰く、穏やかな街のイメージなのに、反骨精神が地盤にあると評していた。

私自身、浜松から単身東京へ転勤になった場所で、銀行としても開店3年目の若い店舗。自由ヶ丘の駅前の南風ビルの1階と2階で狭いながらも落ち着いた雰囲気のいい店だった。ここで同期の女子と社内結婚したが、3年半後二人の息子を残してガンで逝ってしまった。

南風ビルの地下には「ファイブスポット」というモダンジャズのライブハウスがあった。ここはビルオーナーの娘婿でもあるジャズ評論家イソノテルヲ氏が経営していて、ニューヨーク帰りの若いジャズピアニストのモダンジャズを肴に、銀行の先輩と時々ウィスキーの水割りを飲んでいた。

とにかく自由が丘は思い出の多い街で懐かしさもあり、これからも時々ふらっと立ち寄りたい場所である。

 

 



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