ふらっと入った本屋で見つけた文庫本「生かされる命をみつめて」を読む。私の好きな作家五木寛之著で、初版は2015年10月、サブタイトルは「五木寛之講演集 自分を愛する編」。
五木さんといえば何といってもテレビの「百寺巡礼」、今でも再放送されていて毎週録画してじっくりみている。仏像写真家を目指す私にとって為になることが多い。
この本の「慈と悲」「母親の涙」という章に興味を持って読み進んでいったが、8番目の「歓びノート」が気に入って、真似してみようと思った。
「歓びノート」冒頭文抜粋 人間には、ふっとした瞬間に、なんとも言えず心が暗くなるというのか、心萎える瞬間というものがあるものです。
私もそういう瞬間をしばしば感じますし、若い時からそうでしたが、やはりある程度歳を重ねてからは、そうした時間が非常に多くなってきました。
人生の目的として大事にしてきたようなことが、なにかすごくつまらない、小さなことのように感じられる。
自分というものの存在が、もうこの世の中になにか不要の存在であるかのように感じられたり、非常にちっぽけなものに思えたり、孤独を感じたりする。
こういうことが、生きている暮らしの中でしばしばふっと訪れてくるものです。こういう時を「心萎える」と言います。
さて、この文中でとくに「自分の人生の目的として大事にしてきたようなことが、なにかすごくつまらない、小さなことのように感じられる」という件が、今まさに自分に当てはまる気がする。
例えば55年もの長い間続けてきた趣味の写真であるが、普段から誰にでもわかるような分類、コメント、整理等が出来ていない。このことが気分的につまらない状態になっていて、年のせいもあり心萎える瞬間が続いていると言えよう。
また、フィルム時代のカメラ機材は趣味が高じてたくさんあるものの、デジタル時代の今は使うこともなく、市場価値もないものばかりなのに捨てる勇気もない。更に、多用してきたリバーサルカラーフィルムを、今更デジタル化して何になるという気がしてしまう。
イザとなったらカメラ機材は息子たちが適当に使うか処分すればいいし、写真は家族写真と仏像関係写真が残ればいいと思っている。あとはコツコツ出来る範囲で整理するしかない。
「歓びノート」に話を戻そう。 五木さんは四十代の終わり頃から五十代の始めにかけて、なんとも言えず心萎える瞬間がずっと続いたことがあったそうで、そのとき思い切って仕事をやめて三年間休筆宣言した。
この時期京都に住居を移して、自分流に心萎える期間から立ちあがっていく工夫の一つとして、「歓びノート」と称して一日たったひとつでもいいから、なにかすごく嬉しかった、心華やいだ、ちょっと感動したという瞬間を一行書き残すことをしていたそうである。
書くことが何もない日もあったが、そういう時でもなにかを見つける、無理に捻りだすという感じで歓びの一行を書き続けたという。継続は力なりという諺があるように、続けることの大切さを改めて思い知らされた気分である。
書くことがないのではなく、書くことの意欲をなくしていた「ハチの家文学館」であるが、毎日とはいかないものの人生の証の一部として投稿を続けたい。そして、数十年続けている手帳を「歓びノート」に代用して書き綴ってみる。そうすることによって、年のせいばかりにしないで自分を励ましていきたい。
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