古手紙の整理をしていて、昭和35年4月高校入学のときに、山口県防府の航空自衛隊に勤める兄からもらった手紙が出て来た。
当時、私が六つ年上の次兄にあてて書いた手紙の返事であるが、後年、一時疎んだことのある次兄の弟二人に対する優しい思いやりに心打たれる。その次兄も弟もすでにこの世にいない。
-手紙の内容-
御手紙ありがとう 其の後も元気で暮らしているよ 家の方もお変わりなくしてお過ごしの事と思います 就いて栄一等の元気な顔が瞳に浮かんで来るようだ (中略) 其れから先にPXで注文した皇太子記念切手が手に入ったので 此の便に同封したから大事に保管するように 大切な切手だから? 全部で四種からなって居るが拾円の切手がなかったので三種のみ送り 其のかわりにアジア大会記念切手を入れたから受取られ度い
最後に今月の貮拾貮日は栄一の誕生日だ ついては自分が祝を送り度いと思うから 何かほしいものがあったら 至急知らせるよう伝えて呉れ 登一にも高校入学の折には 楽しみに待つよう 乱文だが一同の健勝を祈り失礼する サヨナラ good by T.I
私は男兄弟5人の中の4番目、親父は終戦直後染色業を営む職人堅気の人間だった。郷里の浜松は楽器・オートバイ・繊維の三大産業で賑わっていて、ガチャマンと称してガチャっと織機の音がすると1万円は儲かるといわれた時代だった。手に職を付ければ食っていけると、父は中学を出たら家業で働けとばかり高校に進学させなかった。
そんなわけで次兄は進学希望だったのに昼間の高校進学を諦め、浜松北高校という名門校の夜間部に通ったものの、そののち自衛隊に入って中退している。結婚して子供が二人出来たものの、お酒が原因で身を崩し離婚した。あとからおふくろに聞いたが、高校へ行けなかったことが相当悔しかったらしい。
結局、高校進学できたのは私だけで、それも中学3年の担任が親父を説得してやっと高校へ行けたのである。そんな次兄の経緯もあって、大学進学を考えるまでもなく高校を卒業出来ただけでもありがたかった。そして財閥系の銀行に入社、安定した高収入の生活を享受できたのである。次兄の悔しい思いを蔑にして、酒癖の悪さを非難していた自分が悍ましい。
両親、長兄、次兄、弟も亡くなり、残るは三兄と私の二人だけになった。三兄は郷里浜松で一度に150人は入れる大衆割烹を営んでいる。包丁一本でたたき上げた立志伝中の人物で、その兄も73才になって今年の始め息子に家業を承継したが、まだまだ板場で刺身包丁を握っている。三兄は次兄にも優しかった。三兄の事業の成功は、家族を思いやる心のゆとりの表れでもあるかもしれない。
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