今日のテーマは、職人の魂 川崎町工場゛ものづくりの魂消えず゛
川崎市等々力工業団地に生きる職人の意気込みを取材したもので、不況のさ中経営者の高齢化が進みつつも、町工場で独りがんばっている人、父から子へと職人魂を受け継ごうとしている人たちの姿が輝いてみえた。
板金業の福本勇さん67歳。受注は最盛期の4分の1に減っていても、独自のアイデアで手作り工芸品を産み出し好評を得て見学者が絶えないようだ。板金技術を生かして大型万華鏡をつくってみせたり、不況で余った時間を、遊び心と言いつつも見事に子供から大人まで惹きつけるモノを造っている。体力の続く限り今の仕事を続けたいと、毎日300回の腹筋運動を欠かさないという。同じ年でありながら、全く運動しないで酒ばかり飲んでいる私とは大違いだ。
旋盤を得意とする佐藤千助さん幸一さん父子。転職して後継ぎとなった幸一さんが言っていた。「父を尊敬しています」「効率やコストのことばかり考えがちな今、手間がかかってもいいものが完成したときの喜びは代えがたい」、父から子へと町工場の職人魂が確実に伝わっている。
町工場といえば親父を思い出す。親父は郷里浜松で、終戦直後から染色工場を経営していた。当時の浜松は繊維の町としても知られ、ガチャマンといってガチャっと織機の音がすると1万円儲かるといわれたほどてある。ちなみに当時の浜松の三大産業は、楽器・オートバイ・繊維であった。
子供だったころ、小さな町工場は活気があった。中学出たての従業員数人が住み込みで働いていたし、おふくろも子育てと家事に追われながら家業に専従していた。子供の私たちはリヤカーで多量の糸を運ぶ手伝いが日課になっていた。親父は学問よりも手に職をつけろとばかり、進学には消極的だったが、男兄弟五人の中で私だけが進学させてもらえた。しかし、その兄弟も三人亡くなって二人だけになってしまった。
手に職をつけて一度に150人も入れる大衆割烹を経営するすぐ上の兄と、進学したおかげで銀行に勤めることができた私だけである。包丁1本でたたき上げた兄を見ていて、親父のいうことも正解だったと思うようになった。その兄も親父に恥ずかしくないまでになったことを私によく話す。先年亡くなった飼い犬(柴犬)が来た日が偶々親父の誕生日で、そのことをすごくうれしそうに話してた。親父のことが忘れられないのが子の常である。
親父はよく遊びよく働いた。織り元からの色の注文にも研究熱心に染料を調合していた姿が目に浮かぶ。やがて繊維産業は斜陽化して衰退の一途を辿り、長兄が跡を継いでいたものの廃業せざるを得なくなった。その町工場も10年近く前に連続放火事件で火災に遭い、全焼してしまった。石炭をくべて大きな釜の湯を風呂桶に移し、入浴していた懐かしい情景が今でも目に浮かぶ。
町工場が不況にもめげずに生き抜くのは大変だと思う。この川崎の昭和の町工場は、平成不況の今も強かに生きている。すばらしいことだと思う。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます