天皇の名字(?)、元号や葬儀、三種の神器についてなど、意外に知らない皇室の雑学を学ぼう。
<これまで投稿されたコメントのタイトル一覧>
・天皇についての雑学 (浜名勇三)
・皇統譜について (浜名勇三)
・女帝の子も親王とする (浜名勇三)
・「玉露叢」より明正女帝ご即位時における記述部分 (浜名勇三)
・天皇たる所以の四つの礼 (浜名勇三)
・天皇の葬儀 (浜名勇三)
・天皇の名前 天皇の御子の名前 (浜名勇三)
・皇位継承順位は直系・長子優先 (浜名勇三)
・皇太子不在は緊急事態ではない (浜名勇三)
・宮中三殿と三種の神器 (浜名勇三)
・天皇の後宮 (浜名勇三)
・明治天皇による諡号追贈 (浜名勇三)
・「一世一元制」になったのは明治から (浜名勇三)
・元号について (浜名勇三)
・天皇には名字が無い (浜名勇三)
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・天皇についての雑学 (浜名勇三)
・皇統譜について (浜名勇三)
・女帝の子も親王とする (浜名勇三)
・「玉露叢」より明正女帝ご即位時における記述部分 (浜名勇三)
・天皇たる所以の四つの礼 (浜名勇三)
・天皇の葬儀 (浜名勇三)
・天皇の名前 天皇の御子の名前 (浜名勇三)
・皇位継承順位は直系・長子優先 (浜名勇三)
・皇太子不在は緊急事態ではない (浜名勇三)
・宮中三殿と三種の神器 (浜名勇三)
・天皇の後宮 (浜名勇三)
・明治天皇による諡号追贈 (浜名勇三)
・「一世一元制」になったのは明治から (浜名勇三)
・元号について (浜名勇三)
・天皇には名字が無い (浜名勇三)
江戸時代、天皇という存在は下々の人間にとって無縁であった。
幕末、天皇は「玉」と言われ、絶対的権威のイメージにすると同時に、策略の手段として用いられた。
「玉」というのは、第二次大戦中の「玉砕」、戦後は「玉体にメスを入れて良いのか。」という言葉を生んだ。
明治維新を迎え開国した後、明治天皇は明治5年から18年にかけて日本国中を巡幸し、その地は聖跡となった。
この巡幸は、当時の「生き神信仰」と「天皇」とを結びつかせていった。
その巡幸によって、全国の神社は天皇との関係を利用して序列化してゆき、国家神道のベースとなっていった。
天皇の宗教的権威である宮中祭祀であるが、古来より伝えられて継続されていると言われているが、途中で消滅廃止されたものがあったり、明治政府が新たに創設したものが多いのである。
「玉」から「天皇」という呼称が日本国民に定着したのは、明治天皇が巡幸を始めてからの明治15年頃からであり、それも明治官僚による政治工作の成果である。
皇統譜について
大正15年 (1926年) に制定され、皇統譜令にもとづいて登録されて保存されるものを皇統譜という。
天皇と皇后にかんするものを大統譜、皇族にかんするものを皇統譜という。
大統譜には天皇と皇后の欄がある。
天皇欄には御名、父と母の御名、ご誕生の年月日場所、命名、践祚、元号、改元、即位礼、大嘗祭(行えなかった天皇あり)、成年式などの項目があり登録される。
大宝令 701年に制定
「女帝」という言葉がすでに存在している。
養老令(757年に施行)のなかにある「継嗣令」
「皇嗣令」の本文には「女帝の子も亦同じ」と注付されており、女性天皇の場合であっても、その兄や弟や子も同じように「親王とする」と規定している。
※ 第44代 元正女帝が717年から養老律令の編纂を始める。
※ 養老令(養老律令)が施行されたのが757年
「玉露叢」より明正女帝ご即位時における記述部分
姫神である「天照大神」をまつり
天皇の皇祖神は天照大神。
天照大神は姫神つまり女神。
天皇の先祖を遡り行き着く先は天照大神という姫神つまり女神であり男神ではない。
天皇たる所以の四つの大礼
立太子の礼
即位の礼
殯の礼
大喪の礼
昭和天皇は四つの大礼すべてされた。
今上陛下は殯の礼について懸念の心情を吐露されたが、四つの礼は天皇たる所以の大礼であるゆえ、平成天皇から行わないとは考えたくはない。
「殯の礼」が行われるのは平成天皇になってからのことゆえ、あえて無礼を承知で平成天皇を書かせていただいた。
天皇の葬儀
天皇が崩御すると、その場で通夜が営まれ、翌日納棺となる。
皇居内に「殯宮」が設けられ、そこに棺が移され、それを「殯宮移御」という。
御陵が完成するまで毎日、供養が行われ、それを「殯宮日供の儀」という。
それとは別に10日ごとに祭祀が行われる。「殯宮移御 十日祭の儀」「殯宮移御 二十日祭の儀」・・・と続く。
※ 御遺体を埋葬する前、崩御した天皇ゆかりの人々が御遺体を前に別れを悲しみ哀悼するのであるが、その期間を「殯葬の礼」という。
それらの儀式が行われている間に御陵を完成させて、本葬となる。
本葬は「葬場殿の儀」(告別式)、「陵所の儀」(埋葬するにあたり御陵前で行われる祭祀)をいい、その2つを「斂葬の儀」という。
※ 天皇の棺を運ぶには牛車であるが、昭和天皇の時は轜車という名の霊柩車であった。
※ 大喪の礼においては、切れ切れではあるが、「八瀬童子」が葱華輦を担いでいる。
明治天皇の大喪礼と大正天皇の大喪礼の時に、当時の勢力との軋轢はありつつも中庸がとられたが、昭和天皇の大喪礼には葱華輦を担げなかった。
八瀬童子の無念さを察すると同時に、明治、大正に見られた「大喪の礼」が遵守されなかったのも残念である。
儀式は埋葬された翌日からも続き、一年祭が過ぎても続く。
一連の儀式が終わり、前天皇の喪が完全に明けるのは一年半後になるのである。
昭和64年(1989年)1月7日に崩御した昭和天皇「大喪の礼」は1989年(平成元年)2月24日に行われた。
天皇の名前 天皇の御子の名前
天皇の名前は「○仁」であるが、それは後冷泉天皇・親仁(ちかひと)以降に多く見られるようになった。
男子を○仁、女子を○子と定められたのは明治8年である。
明治8年 「皇子女降誕諸式」が制定される
男子の場合は「某仁」、女子の場合は「某子」と命名することが決められた。
皇位継承順位は直系・長子優先
※ 明治22年に制定された旧皇室典範によって明文化される
① 天皇の長男
② その長男
③ その次男
④ その三男・・・
⑤ 天皇の次男
⑥ その長男
⑦ その次男
⑧ その三男・・・ と続く
※ 明治22年、旧皇室典範が制定される前の明治15年、女帝即位を認める派と女帝即位を認めない派との間で「女帝ヲ立ルノ可否」が討論された。
旧皇室典範の制定途中において「女性皇族モ皇位継承権アリ」という文言が入った事もあったが、女帝即位の可能性は消滅して現在に至る。
※ 昭和21年の国会において明治以降初めての女性議員が、「女性皇族にも皇位継承権を認めるべきではないか。」と質問するも、男系男子という文言は外されなかった。
※ 現在の皇室典範が制定されたのは昭和22年
※ 男性皇族しか天皇になれないと法制化されたのは明治22年からであり、皇紀二千六百余年から考えると伝統とは言えないほど新しいのである。
皇太子不在は緊急事態ではない
明治天皇 嘉永5年9月22日(1852年11月3日) ご生誕
父 孝明天皇
生母 権大納言 中山忠能の娘・中山慶子(典侍)
慶応2年12月25日(1867年1月30日) 孝明天皇崩御
慶応3年1月9日 (1867年2月13日) 満14歳で践祚の儀を行い即位する
(元服前の践祚であったので立太子礼を行わずに即位)
※ 明治天皇は孝明天皇のただ1人生存できた親王であるが「立太子の礼」は行われないまま即位する。
すなわち孝明天皇の御代は「皇太子」不存在であったとも言える。
大正天皇 明治12年(1879年)8月31日 ご生誕
父 明治天皇
生母 議奏・権中納言正二位 柳原光愛の娘・柳原愛子(典侍)
明治22年 (旧)皇室典範の制定により皇太子となり「立太子の礼」が行われる。
※ 明治時代は22年間、親王はいても国内外に宣下された「皇太子」は存在していなかったと言える。
昭和天皇 明治34年(1901年)4月29日 ご生誕
父 大正天皇
母 貞明皇后(節子皇后)
大正5年(1916年)11月3日 宮中賢所で立太子の礼が行われ、正式に皇太子となる。
※ 大正時代は5年間、確定された皇太子はいなかった。
今上天皇 昭和8年(1933年)12月23日 ご生誕
父 昭和天皇
母 香淳皇后(良子皇后)
昭和27年(1952年)11月10日 皇居・表北ノ間で立太子の礼と皇太子成年式が挙行される。
※ 昭和時代は27年もの間、「立太子礼」を挙げた皇太子は存在していなかったということになる。
皇太子徳仁親王 昭和35年(1960年)2月23日 ご生誕
父 今上天皇
母 美智子皇后
平成3年(1991年)「立太子の礼」が執り行われて皇太子となる。
こういうのを見てゆくと、徳仁天皇が即位された後、早急に立太子礼を行い皇太子を決めないのは、重大な伝統破壊でも危機でもないことが分かってくる。
天皇の祭祀は宮中三殿(賢所(温明殿)・皇霊殿・神殿)と神嘉殿を中心に行われている。
宮中三殿には御神体が五つある。
賢所に鏡が二つ。
皇霊殿に歴代天皇と皇族の御神体が二つ。
神殿に一つ祀られている。
三種の神器である、剣の模造品、勾玉本体は、吹上御所の「剣璽の間」に安置されている。
※ 三種の神器とは、天照大神が天孫ニニギノミコトに授けた鏡、剣、玉である。
このうち鏡と剣は祟神天皇が模造品を製作し、それが宮中に入った。
※ 「鏡の本体は伊勢神宮に祀られ、剣は熱田神宮に祀られている。」と言われているが、剣の本体は壇ノ浦で沈んだと考えられる。
宮中三殿に祀られている御神体は、高さ約90cm、縦横それぞれ約80cmの唐櫃に納められおり、その重量それぞれ約200kg以上あると言われている。
摂関時代(10世紀後半から11世紀後半にかけての摂関政治の最盛期)、天皇の近辺には必ず三種の神器が置かれていた。
「夜の御殿」などで就寝する時には近くに置かれ、行幸の時にも必ず剣と鏡が天皇の前後にあった。
しかし昭和時代にも平成時代にも、そのような映像は見当たらないし説明も無いので、吹上御所に安置されたままと考えられる。
※ 今上天皇が伊勢神宮ご訪問される時は剣も帯同されているようであるが、殊更に大きな話題になったことはないようである。