日々の寝言~Daily Nonsense~

創造的人材の育成

久しぶりに大学の先生と飲む機会があった。

最後は、最近の学生と文科省の悪口になってしまうのは、
いつものことだが、聴いていてちょっと悲しかった。

学生のほうについて言えば、
大学以前の教育の結果なので、
全体としての責任は文科省にある。

「ゆとり教育」の話をみているだけでも、
場当たり的な感じはすごくする。
研究予算のつけ方にしても、二言目には、
「ノーベル賞級の研究者育成」あるいは
「新産業創生」だ・・・

そういうことをするとどうなるのか?
三手先も読めていない。
そういう将棋指しに使われる駒たちの気持ちは
わからなくはない。
それに、今の大学は実際のところ、
有能な人材を消耗しているのは事実のような気がする。

幸せなのは、一握りの超A級研究者と、
完全に悠々自適で、ぜんぜん仕事しない人と、
両極端だけではないか?
大半の先生はなんだかいつも疲れているようだ。

そういう普通の人々は、
予算を握られているから、
正面きって反乱することも難しいのだろう。

だいたい、東大からして、
率先して学生、研究費獲得ゲームの枠内で
他大学を相手に戦ってしまっているようで、
明らかに戦う相手を間違えていると思うのだが、
かといって、自分だけ反抗しても干されるだけだ。

局所最適、全体不最適で、
ゲーム理論が泣いている。

しかし、愚痴ってばかりでは悲しい。
だいたい、社会における教育とは何なのか?

社会の「総合的な力」
を向上させるためのものだろう。

総合的な力、の評価尺度が難しいが、
でもまあ、今の日本では、
「創造的な力」が求められている、
というのはおよそは間違っていないだろう。

これまでのシステムは、
「平均的学力」を持った均質なサラリーマン養成、
だったので、そこが変わっている、
というのは間違っていないように思う。

そのために、知識偏重はいけない、
詰め込みはいけない、というのもまあ
そんな感じもするのだが、
ここらあたりから怪しくなりはじめる。

一方で、創造性の発揮には前提となる<知識>が必要だ、
というのは間違っていないように思えるからだ。

だいたい、新しいこと、というのは、
3つくらいのアイデアの偶然的な組み合わせであることが多い。
逆に言えば、創造性を発揮するには、
複数の分野を<理解>しているほうが有利だ、
という感覚がある。

それも、百科事典的に精通しているというよりは、
その分野で培われてきた基本的なアイデアを理解し、
かつ、目の前の特殊な問題に適用できる力、
という意味での「知識」が重要だろう。

それは、原理の理解と演習の繰り返しでしか
身につかない。

好奇心はすごく重要だが、
それだけではふわふわしてしまう。

かといって、ひたすら計算練習
というのもちょっと違うだろう。

原理原則を理解することの楽しさ、有効さと、
反復練習で能力が上がってゆくことの楽しさ、有効さと、
どうバランスさせ、良い循環を作るのか、
という問題。

情報が多すぎる時代、
もはや誰も、すべての情報を学ぶことはできない時代
だからこそ、逆に、その中から
自分にあったいくつかを選んで、
原理的なアイデアを「身につける」ためのスキルは
すごく重要になってきていると思う。

そうしないと、あふれる情報を前に、
目がくらんだ状態で立ち尽くすことになる。
目先に有利な情報だけに飛びついて回って
一生を終わることになる。

世代もずいぶん変わっていることだし、
このあたりを、もうそろそろ
正面からなんとかできないのか?

ノーベル賞を取った人に、
ノーベル賞を取るための研究所の設計を頼むのは良いと思うが、
小学校の設計はちょっと違うのではないか?

かといって、現場の先生が一番知っている、
というのも違うような気がする。
そこに最も多くの情報があるのは確かだが、
それを俯瞰的に整理することも必要だ。

日本の戦後復興と現在の国力の背景に、
地勢学的な幸運はあったにせよ、
教育システムの力があったのは間違いないだろう。

教育科学と現場の組み合わせで、
なんとかうまく、新しい時代への転換、適応を
果たして欲しいものだ。
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