日々の寝言~Daily Nonsense~

いじめを無くす「エンカウンター」

プロフェッショナル-仕事の流儀-から。

「エンカウンター」を実践している先生が取り上げられていた。
以下はNHKのHPからの引用。

「話し合うことで、互いの価値観を知り、関係が深まっていく。」

「鹿嶋は、さまざまなエンカウンターのプログラムを駆使し、生徒同士を関わらせる。生徒一人一人が絆(きずな)の糸でつながっていれば、いじめや学級崩壊は起こりえない。生徒同士のネットワークが張り巡ったクラスを、鹿嶋は常に目指している。」

いじめや学級崩壊は<起こらない>、と言うのは、
マスメディア的単純化だが、
お互いの関係を深める、コミュニケーション能力を育てる、
というのは、良い方法だと思う。

それによって、
「他者は、そうありえたかもしれない自分だ」
と感じられるようになれば、
状況はかなり改善されるはずだ。

ただ、こういう話を見聞きするときに、
いつでも、どこか一抹の気持ち悪さを感じてしまうのは、
どうしてなんだろう?

自分のどこかに、
しょせん人間同士は理解しあえない、
という気持ちや、
人をいじめる楽しさというのは確かにある、
という気持ちがあって、
上のようなお話が、それを隠蔽しようとしているように
感じるからだろうか?

たとえば、「コミュニケーション」の前提は、
人と人は理解しあえない、ということだ、
と思っている。

だからこそ、少しでも良い関係になるように、
力を尽くし、もがくのが「コミュニケーション」だと思うのだ。

本来、問題があるのが自然な状態で、
コミュニケーションはその問題を緩和するとしても、
消すわけではない、と思う。

これが逆転されて、
問題が起こるのは、相互理解が足りないからだ、
お互いの理解があれば、気持ちが通じ合えば、
問題が解決できる、というふうになると、
なんとなく気持ち悪いと思うのだ。

もちろん、そういうことをしっかりと踏まえて
実践されているのだとは思う。
先生も、「万能薬ではない」と言い切っておられたし、
人それぞれの価値感の違い、を感じることが大切、
ということも挙げられていた。

ただ、真似をする人は、ともすると、
単純化する方向に流れやすい。
そのあたりを、もう少しきっちりと
伝えたほうがよかったのではないだろうか?

最後のほうは、なんだか、
普通の「いい話」になってしまっていて、
それも、ちょっと嫌な感じだった。

話がややこしくなると、
歯切れが悪く、おもしろくなくなるし、
単純化しすぎると、危ういし。
ドキュメンタリーというのは、難しいと思う。
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