をやっていたので、録画して楽しく視た。
レムは学生時代によく読んだ作家の一つで、
「ソラリス」以外も読んだし、
タルコフスキーの映画も、ソダーバーグの映画も
(こちらはほとんど印象に残っていないが)見ている。
今回、番組の中で、
タルコフスキーの映画のシーンが
挿入されていて、とても懐かしかった。
思ったよりかなり画質が良かったので、
DVD か Blue-Ray を買ってみようかなぁ。
それはともかく、旧訳がロシア語からの翻訳で、
検閲などを考慮して削除されたり修正されている
ところがあるというのは今回改めて気づかされたので、
今回の解説者の沼野さんがポーランド語から
翻訳したものも買って読んだ。
途中、旧訳では省略されている、
海の詳細な描写がレムの想像力のすごさを
よく示している(でもちょっと退屈で大分飛ばした・・・)
で、書きたいことは、やはりラストについてだ。
沼野さんも番組で紹介していたが、
原作のラストとタルコフスキーの映画のラストは
かなり違っている。
ラストでは、ハリー(もどき)との邂逅と別れを経て、
ソラリスにも上陸してみた後のケルヴィンの心境が
吐露されている。
海との出会いの中で、何かを理解できる、とか、
コミュニケートできる、とか、愛せる、といったことは、
すべて幻のようなもので、実のところ、すべては
不完全な神の戯れの中でただうつろってゆくだけ、という
諸行無常的な境地に立たされたケルヴィンだが、
小説のラストには、それでも「残酷な奇跡の時代はまだ続いている」
ことを固く信じている、と書かれている。
科学者としての信念を貫く、という感じだろうか?
一方、タルコフスキーの映画の有名なラストシーンは、
ケルヴィンが故郷の家に戻り、そこで父親と抱き合う。
しかし、そこからカメラが引いてゆき、実はそれは海の中の
島の上でのことだ、という映像で終わる。
番組の中で、沼野さんは、その違いについて、
レムは、絶望を持ちつつも希望することを宣言している
のに対して、タルコフスキーはノスタルジアの中に
回帰させてしまった、と言われていた。
レムのこともよくご存じの方なので、
これはきっと合っているのだろうが、
タルコフスキーファンでもある私としては、
ちょっと納得できないところもある。
タルコフスキーは、もちろん「ノスタルジア」の人で、
1+1=1の人ではあるが、
そこにすべてを回帰させてしまう人ではない。
それはあくまでも実現しない理想である、
ということは意識しているだろう。
にもかかわらず、
ノスタルジーを志向せざるを得ない
どうしてもそこに憧れてしまう
そういう人間の姿を描いている。
だから、タルコフスキー自体も
映画でそれを描かざるをえないわけだ。
そういうふうに思うと、ソラリスのラストは、
我々の世界もまた、ソラリスの海のような
ものの中にあるのかもしれない、
ということを示唆しているとも言える。
そこで父と抱き合い、一体化しようとする人間は、
感動的であると同時に、残酷で戯画的だ。
* * *
それにしても「残酷な奇跡の時代」というのは
何を意味しているのだろう?
ハリーとの再度の邂逅と別れ=残酷な奇跡?
人間が宇宙に出て、未知の知性と遭遇する神なき科学の時代?
それをもたらす人間と言う存在の時代?
両方をかけているのかもしれないが・・・
ちなみに、旧訳を見たら、
「驚くべき奇跡の時代」と訳されていて、
これだと、やはり科学の時代という意味のような。
追記:
検索していたら、
こちらのブログ
が見つかって、なんと、勅使河原三郎さんが演出をしたオペラ、
というのがあるらしい。確かに気になる・・・
というわけでさらに検索したら
藤倉さんという方が作曲したらしい。
紹介記事があった。
YouTube でも少しだけ視られるようだ。
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