橋爪大三郎さんの「はじめての構造主義」
を読んだ。
三田さんは、実存と構造は
コインの裏表で、
実存の孤独が、
隠された普遍的パターン=構造の中に
回収することで癒される、と言う。
ふーん、という感じ。
橋爪さんの構造主義入門は、
レヴィ・ストロースを中心に、
数学との関係も含めて
わかりやすく説明している。
今の人工知能を支えている機械学習は、
たくさんの事例から学習するらしいが、
個々の事例は実存で、
そこから抽出される潜在的なパターンが構造、
ということであれば、機械学習というのは、
構造主義的な営み、ということに
なるのだろうか?
そういえば、昔々に、
群不変性に基づく特徴抽出の理論
というのも聞いたことがあったような。
そうしたパターンは、言語化されずに、
ある種の神託やタブーとして社会システムに
組み込まれていたわけだが、
人工知能が普及すると、だんだん
そういうふうに回帰してゆくのかもしれない。
なんだかわからないが、
人工知能の言うとおりにすると
うまくゆくのだから、
そうしておこう、みたいな・・・
もちろん、自動運転の事故のように、
人工知能でも避けられない事故や厄災は起こる。
今の金融市場のように、ゆらぎが増幅されて、
良くないことが起こることもあるだろう。
自律兵器への利用ももちろん心配だ。
ブラックボックスではない、説明できる人工知能
というのは、レヴィ・ストロースの神話学のように、
その構造を明示化、言語化しようとするもので、
やはり西欧的理性という感じがする。
「神」が使えない近代に、
神託的なものとどう折り合うのか?
というのは「人工知能が人間を超えるか」、
とか、「人工知能が仕事を奪うのか」、
ということとは別に、むしろそれらよりも、
今考える必要がある問題で、
案外と答えが難しい問題なのかもしれない。
などということをぐだぐだと考えるのは
愉しいのだが、でも、堂々巡りから抜けられない
のは悲しい。
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