その首を持って自首するという事件があった。
こういうことは、数年に一度起こってしまう
ことなのかもしれないが、それにしても、
どうしてこんなことが起こるのか?
アエラでは、吉岡忍さんが、
自分の心のありようや、身近な人間との
関係のよしあしばかり考えるから、世の中が見えなくなる。
なぜ自分は自分のなかに閉じ込められるのか、
何によって自分は右往左往させられているのか
わからなくなる。自分しかいなければ、自己は
ますます肥大化し、そこで芽吹いて増殖する妄想に
歯止めがきかなくなる。
もういい加減、「自分」や「心」を重大視するのを
やめたらどうだろう。
と書いている。
実際、日本では平和で便利な世の中が続いていることもあり、
「世の中」をほとんど実感することなく、
ものすごく狭い世界だけで生活できるようになっていると思う。
私が高校生くらいの頃は、
三里塚闘争とか反ベトナム戦争とか、いろいろあって、
世の中は不条理に満ちていて変えてゆくべきものだった。
しかし、いまや、世の中は空気のようなもので、
安定してあるのがあたりまえ、なのだろう。
しかし、その実、世の中は徐々に変質して、
生き抜いてゆくもの、になりつつあるのだが、
それは、将来についての漠然とした不安のような形で
高校生くらいの年代に陰を落とすだけで、
感覚としては真綿で首を絞められているのだが、
戦う相手は全然見えない、という状況のように思える。
必然的に、興味は、自分と自分の周囲のごく狭い範囲に
集中しやすい状況になっている。
そこがうまくゆかないと、自分あるいは周囲を責めるしかなく、
とてもつらい。
今回の高校生も、中学時代はいろいろ活躍していたのだが、
高校になってうまくゆかなくなったようだ。
徐々に狭い世界から広い世界に出てゆくときに、
それまでうまくいっていたことがうまくゆかなくなる、
ということが起こるのは自然なことだ。
そのときに、それまでの「自分らしさ」などにあまりこだわらず、
必要なら新しい技なども取り入れて、
自分の立ち位置を取り直すことができれば良いのだが、
それまでの「自分らしさ」にこだわり過ぎると、
心が強張ってしまい、うまく立ち位置の変換ができなくなる。
吉岡さんも言うとおり、「自分」なんて、
入れ物に過ぎなくて、入れ物自体のできよりも、
その中に何を入れるかのほうが重要なのだが・・・
そうして、外でうまくゆかなくなると、
どうしても自分(と身近な範囲)に
閉じこもってゆくことになる。
そして、それですぐには困らないような
世の中になっている。
そういう場合に、母親というのは、
傷ついたプライドを支える最後の命綱であるとともに、
逆に、それがあるがゆえに思いきって外に出てゆけない、
一種の障害になる可能性が高い。
だから、そこには強烈な愛憎の両方が生じる。
無意識の領域で、
なんとか母親を断ち切らなくては、外に出てゆけない、
という気持ちと、母親に依存しなくてはやってゆけない、
という気持ちが激しく争う。
「自分らしく」生きようとか、自己責任とか、
「自分」が悪い、「自分」が変わらなくちゃ、
と言わざるを得ない(言わされている)時代よりも、
世の中が悪い、と言えた時代は
ある意味では幸せだったのかもしれない。
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Unknown
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