日々の寝言~Daily Nonsense~

村上春樹「街とその不確かな壁」をめぐる冒険

文庫になるのを待とうかと
思ったのだが、結局待てずに、
Kindle で買って読んだ。

全体で3部構成で、第1部は、
「世界の終わりとハードボイルドワンダーランド」
の「世界の終わり」部分とかなり重なっている。

このあたりについては、
お金を返して欲しい、と思う一方で、
「世界の終わりと・・・」の背景が
説明されていてうれしかった。

「あとがき」にもあるように、
もともとは「街とその不確かな壁」
というタイトルの中編?が書かれて
文学誌に掲載されたが、作者に不満があり、
単行本には収録されていなかった。

それをベースとして、
「世界の終わり・・・」が書かれて、
いったんは成仏したはずだったが、
作者の中ではまだ気になっていて、
今回、改めて、元のタイトルで
書きなおされたということらしい。

第1部が、元の作品をなぞって
説明を加えたような形で終わるのだが、
第2部、第3部は新しい、
その後の話になっている。

当初、第1部だけで終わるはずだったが、
書き上げたあと寝かしていたら、
続きが必要な感じがした、ということだ。

背景説明だけではつまらないので、
以下、まだ未消化ながら、
ネタバレありの感想を少し。

 * * *

基本的な物語の構造は、
いつもの村上春樹さんの
お話であり、異世界往還ものだ。

壁で囲まれた街は、
時間がとまっている。

季節は巡るものの、
新しいことは起こらず、
同じことが反復される
熱力学的死、の世界。

その安定を維持するために
エントロピーを捨てるのが
夢読みの役目なのかもしれない。

きわめて粗っぽく言えば、
エデンの園、黄泉の国、
冥府、竜宮城、秘密の庭、
ファンタージェン、
集合的無意識の世界、
なんと呼んでもいい。

主人公は現実世界と
その異世界を往還する。

彼女を追って、黄泉の国に行く、
と思えば、イザナギ-イザナミ
神話が連想される。

彼女の物語の中の街に
入り込むという意味では、
エンデのファンタージェンが連想される。

夏目漱石の「坑夫」
というのもあるし、
福永武彦さんの「冥府」もある。

福岡伸一さんなら、
ロゴスとピュシス、
と言うだろう。
あるいは、ロゴスとカオス。

本質と影、という言葉は、
プラトンのイデアも思わせる。

無意識のさらに下にある世界。
フロイドのスーパーエゴ、
あるいは、死の欲動の向かうところ。

第1部では、その世界が
彼女の話から生まれた経緯と
その世界での暮らしが語られる。

第2部では、主人公が
こちらの世界に戻って、
図書館で働く暮らしが語られる。

そして、第3部では、
主人公はもう一度、
壁で囲まれた街に行くのだが、
夢読みの役目を少年に引き継いで、
こちらの世界に戻ることを決める。

こう書くと、生の世界と
死の世界を対比させて、
「生きろ!」と言っているようだが、
村上春樹さんの主人公は
宮崎駿さんのナウシカとは違って、
あちらの世界を壊すことはない。

どちらの世界が本体で
どちらの世界が影かは
重要ではないのだが、
二つの世界はどちらも必要
ということなのだろう。

普段、日常生活を生きていながら、
折に触れて、読書や思索に
ふけってしまうように。

夢読みの仕事を引き継ぐ少年は、
本ばかり読んでいた村上春樹さん
自身の投影をさらに純化したもの
でもあるのだろうが、
個人的には、ChatGPT を連想した。

世界中のあらゆる文章を
読みつくす AI。

それはまた、SNS などの
ネットの世界で半分以上生きている
私たちの姿でもあるのかもしれない。

つまり、私たちはほとんど
壁の中の世界にいる、
ということだ。

こちらの世界での「善き者」としては、
図書館長の子安さん、その部下の添田さん、
そして、カフェのオーナーの姿が
記憶に残る。

音楽や食べ物が重要な役割を果たす。

このあたりも、村上さんの
他の作品と似ている。

差異と反復。

ちょうど並行して、
大澤真幸さんが編集した、
柄谷行人さん、見田宗介さん
との対談を読んでいた。

こちらについてはまた別途書きたいが、
壁の中の世界は、
交換様式 D の世界、
なのかもしれない。

一方の見田さんは、カスタネダから
強い影響を受けたというが、
カスタネダもまた異世界を旅した人で、
その著作に導かれて
世界を旅した見田さんが、
近代的自我の課題である
「ニヒリズム」と「エゴイズム」の
超克を想って「気流の鳴る音」や
「時間の比較社会学」を書く。


ところで、
「街とその不確かな壁、考察」で
検索すると、代本読男さんの note
が上位に出てくる。

この記事の最後に、
「街とその不確かな壁」の
エピグラフにある
「クブラ・カーン」という
コールリッジの詩
について言及されている。

クブラ・カーンは、
モンゴルの覇者フビライ・ハンで、
この詩で歌われているのは、
彼が避暑のために作った
とされる桃源郷、"Xanadu"(ザナドゥ)だ。

オリビア・ニュートン・ジョンの楽曲を始め、
ゲームなど、いろいろな作品に登場する。

こちらの記事によれば、
現在の Web の前身のひとつである
ハイパーテキストシステムの名前も
ザナドゥだったらしい。

コールリッジといえば、
漱石の文学論にも大きな影響を
与えたとされる
イギリスの詩人かつ文学者で、
柄谷さんの最初の文芸批評も
漱石についてだった。

コールリッジと漱石の
関係についても検索すると、
「漱石とコウルリッジ」
という面白い小論が出てくる。

そこでは、漱石の
シェイクスピア理解が、
三代目柳家小さんと
絡めて論じられている。

もちろん、柄谷さんの
「日本近代文学の起源」も
引用されている。

コールリッジからは、
漱石の文学論の講義について
詳しく調べている
服部徹也さんのページ
にもつながる。
こちらもとても面白い。

さらに、こちらのサイトによると、
「銀河系ヒッチハイクガイド」の
ダグラス・アダムスもまた、
コールリッジの「クブラ・カーン」
と関係のある作品
「ダーク・ジェントリー全体論的探偵事務所」
なる作品を書いているという
(日本語訳もある)。

というわけで、
あたりまえだが、すべては
つながっているらしい。

これだから、
本を読むのはやめられない。
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