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【京都旅行2017夏】その10 嵯峨野 竹林の道 天龍寺

2018年08月09日 21時04分16秒 | 旅行 京都

先日(2018年8月初旬)家族で京都旅行に行って来ました。
このBLOGでは毎回旅行記を書き留める事で、次回の参考にしたり
行った場所の詳細を掘り下げたりしていて、、 早速記事を書き始めよーかなぁ、、と

毎年夏の旅行記は20以上の記事になるので 記事をすべて書き終わるのが年末、、なんて
事もあるのですが、実は。。。

昨年の京都旅行の記事が書き掛けで終わっていませんでした。。

どこまで書いたかなぁと過去記事を検索すると
→ https://blog.goo.ne.jp/gtomita/e/134dff9af99f0ee8d455d09db932a2c5

あああ、、、、、3日間の旅行の 1日目までしか書いてない。。。

と言う訳でまずは昨年の分を(思い出しながら)書き上げることにしたいと思います。

とは言っても昨年の分を書き終わるころには今年の旅行の事も忘れ気味になってしまいそうなので
今年の旅行のざっくりとしたMEMOは20記事程度書いてしまいました。
昨年の分が終わったら改めて加筆して公開していこうと思います。

てなわけで 昨年&今年の京都旅行記事がしばらく続くことになりますが
ご近所の食べ歩きも ボチボチとは上げていこうとは思っています。

 

で、、、2017年京都旅行2日目。 この日は朝からちょっと遠出をして「嵐山」へ
そう、以前から例の竹林に一度は行ってみたくて。。(画的にも)
家族(娘)的にも行きたい! となったのでこれ幸いと!

とは言うものの、メジャーな観光地が故、混雑必死で人込み&竹林な景色を避けるためには
朝いちばんで行くしかない! と旅行中日(なかび)に計画を組み込みました。

朝8時過ぎ、山陰本線 嵯峨嵐山駅を降りると狙い通り 歩く人もまばらで、、
ホントにこっちの道で良いのだろうか?なんて思いながら竹林を目指します(1枚目の写真)

人っ子一人いない と言う訳ではありませんでしたが、記念写真を撮るには
十分な空き具合で、いちばん人が多いタイミングで上の写真位。

そもそもこの竹林はどうやって出来たのでしょう? 
嵯峨野の地は平安貴族の時代から別荘地として利用されたとあるのですが
竹林もそのころから?

古典文学の中にも嵯峨野の竹林が登場するらしいのでそうなのかもしれません。
(ネット検索してみましたが、コレといった由来は見つけられず)

そして、竹林の周囲には沢山の見どころがありますが、今回はそのうちの一つ。
北門が竹林に面している天龍寺を拝観しました。

天龍寺は臨済宗の禅寺で 足利尊氏を開基とし、夢窓疎石(臨済宗のお坊さん)を開山として
後醍醐天皇の菩提を弔うため暦応2年(1339)に創建されたそうです。

後醍醐天皇を追いやった尊氏が天皇の死後呪いを恐れて後醍醐天皇とも関わりの深かった
夢窓疎石に相談して建立したらしいですね。
この建設費を捻出するために、元寇以来途絶えていた元との貿易を再開したのだとか。

明治の上地令(政府が土地を取り上げちゃう)の前までは敷地は今の10倍、
渡月橋も敷地の一角だったとか。

庫裏(くり)(事務所&台所)の入口をくぐると、この達磨がお出向かえ。
天龍寺先代館長 平田 精耕によるもので 達磨宗=禅宗の正にこのお寺のシンボル。

他にもちょっとおちゃめな達磨さんがそこかしこに

有名な天龍寺法堂の雲竜図は常時公開していませんが、襖絵の雲竜は見られます。
作者は江戸時代中期の絵師、曾我蕭白。
と言ってもここにあるのは、キヤノンのプリントなんですけどね。本物はボストン美術館だとか。

因みに曾我蕭白さんってかなーり独特な画風で一見の価値ありですよ。  → ★

多分これが 後醍醐天皇像。 
夢窓疎石は尊氏に「怨親平等(おんしんびょうどう)」を説き、「南朝も北朝も敵味方を区別することなく
戦死した兵士や庶民、馬も牛も生きとし生けるものすべて平等に慈しみ極楽往生を願う」というコンセプトで
作らせたのだとか、、

大方丈と曹源池庭園
「左手に嵐山,正面に亀山・小倉山を借景した池泉回遊式庭園で、
優美な王朝文化と禅文化が巧みに溶け合った庭」とのこと 

他のお寺同様天龍寺も都合8回の火災に見舞われ、建物は最近の再興が多く
大方丈は明治の建立。

その他の嵐山観光は別の機会に回して。。
嵐電に乗って京都の街中に戻ります。

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天龍寺
http://www.tenryuji.com/



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