日本はそんな時代なので昭和12年支那事変が勃発すると父は戦地に召集され行き、焼夷弾による負傷で傷病兵として国内の病院に入院していたようだ。私が三才のころ母の祖父が母と私をつれて父の実家のある岩手県滝沢での煙たい五右衛門風呂に入った思い出はあるが、その後あちこち日本を旅行したらしいが記憶にはない。父に面会したことも覚えていない。(父は秋田の病院だったらしい)父が帰ってきたのは何年だったのかは分からないが、おそらく私が小学校に上がる1年ぐらい前でないかと思う。その頃の覚えていることがジ-ゼルの運転席に乗せてもらったことや高く雪の積もった軌道を除雪している風景、夏はさらさらと清らかな水の流れる小川、今の時代には見ることの無いような大人の背丈以上の太さの丸太の置かれた貯木場、その皮のむけた木の虫食いの穴から真っ白の子供の指ほどの虫が甘く美味しかったこと、皮の鞄のような役所との連絡用の携帯電話で遊んだこと、が蘇る。