嗜好を志向する思考系ブログ。

人間関係と権利

今朝、少し早く出勤したら、隣の課の人が、自分の課の皆さんの机を拭き掃除されてました。  
コロナ禍の昨今、もしかしたら消毒をされていたのかもしれません。
未だ誰も出勤していない、誰も見ていない中でのチョットした気遣い。
そういった細やかな気遣いって、良いなと思います。

その人は義務じゃなく、おそらく自分の気持ちで掃除をされていたのだと思います。
先日のボランティアの話しではないですが、人のために何かをすると、清々しい気持ちになれます。
もしかしたら、自分が気持ちよく仕事を始めるためのルーティンだったりするかもしれません。
そして、職場の皆さんも気持ちよく机に向かえる。
⇒職場環境や雰囲気が良くなる。
⇒自分も仕事がしやすくなる。
職場での人との繋がりの中で、そういったプラスのサイクルが生まれていく訳です。

スポーツの世界で強いチームを作るには、「チームワーク」という技術的な側面とは別に、「クラブワーク」という精神的な側面があります。
選手と監督との信頼度や、選手同士の意思疎通度といった人間関係を高める取り組みである「クラブワーク」は、非常に重要なモノとなります。
仕事も同じで、職場でのクラブワークは重要で有り、上記のチョットした気遣いは、職場のメンバーが自発的に行うクラブワークとなる訳です。
職場にとって、そういう事ができる人は有難い存在ですし、大切な存在です。
が、効率やら権利やらという個人主義的な視点で見てしまうと、こうした効果には気付けなくなってしまいます。


以前、ファミリーマートの「お母さん食堂」というネーミングが、問題になった事がありました。
女子高生が、「料理をするのは女性という前提は、女性の権利を侵害している」といった問題提起をし、名称の変更を求める署名活動をしたとかだったと記憶。
私が興味深かったのは、この女子高生にとって、ゴハンを作ってるお母さんは”権利を侵害された女性”だったということ。
そこには、ゴハンを作っている母親の愛情を感じてもいなければ、ゴハンを作ってくれた母親に対する感謝の気持ちもない。
ただ、可哀想な母親がいるだけ。
「お母さん」という言葉に暖かみを感じる人は、ゴハンの記憶の中に心の繋がりを感じている人なんだと思います。

人は社会的な生き物であり、人間関係の中で存在しています。
そうした事を分かっている人にとって、“権利”を声高に主張する人は、理解できない存在となります。
相手の”存在”を尊重することが前提となる人と人との繋がりにおいて、”権利”という概念は存在しないんです。




【缶コレクション】 エメラルドマウンテン(3)
底面の日付は2016年4月20日。
山のデザインが全面押し出されたエメマン。



(。・ω・。)

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