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記憶は筋肉に刻まれている。
先日の稽古現場で、キャストのフリーソロのバレエのパを整理して一緒に踊っていたらふと、今は亡きバレエの高木先生が現れた。先生には、私が15年ぶりにバレエのレッスンを再トライした日から13年ほど学ばせていただいた。初心者もプロも混在するレッスンで、だからこそ本質的だった。
私はグランワルツが大好きで無駄に高く跳んでしまう。「トレーニングっていって脚に負担かけてちゃ本末転倒でしょ」とスポーツ整形ドクターにたしなめられたこともあり、高木先生亡き後は、もうバレエは封印している。
けれども背筋は跳び方を忘れてはいなかった。弓矢の弓を引くように、背筋が私を空中に連れて行く。「貴方は誰に向かって踊っているの?」空中で高木先生の声が甦る。私は稽古場でも空を向いて跳んでいて、正面をまるで見ていなかった。バレエには献上する舞踊の歴史からお辞儀や方向性のマナーがある。
私はいつも自分のために踊っている。誰がためにでもなく。
筋肉は反復を記憶するが、記憶は反芻して改められる。
さて、私は何故に跳びたいのか。