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敦賀茶町台場物語 その12

2021年04月10日 | 小説

敦賀茶町台場物語 その12

 

茶町台場は文久三(一八六三)年三月末に完成した。雪の降る前に粗方出来上がっていたのだが、最後の仕上げが雪のために伸びた。なんと、大砲を八門も据えられる、敦賀一の規模を誇る台場となった。

しかし、又吉の不安はつのるばかりであった。大砲は旧式で、それほどの威力があるとも思えない。しかも、小浜藩の藩兵が敦賀湊の警備にやってくる気配はなく、藩主忠氏は摂津海岸の警固を命じられており、地元は手薄だ。それなのに、三月には他藩の大名に対して、京都防御のために若狭の守衛に当たる命令が出された。他藩の兵が敦賀の町をうろついて、物騒なありさまだ。何でも、探索や煽動の目的で密かに敦賀に入り込んでいる長州の浪人を取り締まっているのだという。

茶町台場の仕事が終わったと思うと、今度は金ヶ崎に台場を作ることになった。金ヶ崎の土を削って茶町の台場に運んだが、その削った所を台場とするのだ。又吉もまた、そこへの人足として行かなければならなくなった。ずっと、大工の仕事が出来ないでいる。いや、それよりも、金持ちは金銀をため込んで将来に備えているのに、貧乏人は何の備えも出来ないでいる。外国の軍艦が襲ってきたなら、自分はともかく家族はよそに逃がさなければならない。その時には金が要る。親戚は敦賀にしかいないから、みんな逃げるだろう。しかし、金がなければ、どこへ逃げても生きてはいけない。何とかしなければならないのに、金ヶ崎へ台場を作りに行かなければならないのだ。

お触れには次のように書かれている。

『町中一統へ

近日より金ヶ崎炮台場御普請のあるにつき、町中日雇人足残らず炮台場御普請へ出ること、普請頭取名子屋仁兵衛、増田屋源次郎へ申し付ける。よって、町中家蔵普請等に日雇を遣うのは、暫く見合わせるように。

右のこと町中に漏らさず触れるべし。

四月十四日』

台場工事期間中は家の普請をしてはならないから、大工の仕事はない。茶町台場の時と同じだ。気が焦るばかりで、結局なにも手につかないのは、又吉だけではないのだろう。

又吉は金ヶ崎からの帰りに町を警戒中の他藩の藩士に呼び止められたことがある。

「これ、その方、敦賀の町の者か?」

 言葉で他所の藩のものと分かるが、役職までは不明だ。

「へ、へい。庄町の八軒長屋に住む大工で、又吉と申します」

 警戒中の藩士に呼び止められ、不愉快な思いをしたという職人が何人もいた。それで又吉は、ことさら低姿勢で応対した。

「大工というくせに、道具箱も持たないではないか。手足は土まみれになっておるぞ。どこぞの屋敷にでも忍び込んでおったのではあるまいな?」

そう言って藩士が刀の柄に手をかけたので、又吉はびっくりした。

「め、めっそうもございません。まだ夕暮れで明るいのに、そんなはずはありません」

「何! 夜中ならば忍び込むと言うのか。お前は、長州の手先だな!」

カシャンと音がして、刀の銀色の刃が鞘から抜け出てきた。

又吉は悲鳴をあげて一目散に逃げた。いきなり逃げ出すとかえって怪しまれるかもしれないが、そんなことを思う余裕もなく又吉は全力で疾走した。だが、藩士は又吉を追いかけず、腹を抱えて笑い出した。又吉はからかわれたのだった。

こんなことがあっても、誰にも文句を言えない。又吉のような経験をする者が増えていた。親は娘を家の外に出さなくなった。

威勢のいい町の若者が藩士と喧嘩になり、切り捨てられた事件が起こった。その若者と好き合っていた娘に、藩士が強引に手を出そうとして喧嘩になったそうだ。奉行所では、他藩の藩士だからと言って調査もしなかった。

そんな事があれば人心は疲弊する。何とかしなければならないのに、何もすることが出来ない。焦るばかりの毎日だ。

材木屋のお絹にも、同じような焦りがあったのだろうか。

去年の暮れになって、お絹の材木屋に茶町台場で使う材木の注文が入った。だがそれは、お絹の思惑よりもずっと少なかったらしい。お絹の目論見が多過ぎたのだが、本人が気づいていないのだから仕方がない。お絹は亭主に黙って、法外な値を入れた勘定書を奉行所に提出した。奉行所側では、お絹の店から届いた材木の質の悪さと値の高さに驚き、同心を派遣して材木屋を取り調べた。亭主は何も知らないと驚くばかりだが、お絹は数字を間違えたのだと強気で言い訳をした。ところが、家の中を調べてみると、お絹は亭主にも内緒で、金塊や砂金に銀製品の数々を隠し持っていた。それについては、商人が財産をどれだけ持とうが役人には関わりのないことだとお絹は突っばねた。さらに、お絹は実家から金を融通してもらい、隠れて金貸しをしていたらしい。奉行所の役人にまで貸していたので、お絹は強気だったのだ。しかし、調べてみるとお絹が隠し持っていた金塊は、小判を鋳漬したものだと判明した。御禁制に触れたのだ。

三日間の取り調べの後、お絹は百敲きの刑に処せられることに決まった。

来迎寺横の刑場にお絹が引き出されたのは、年の瀬も押し詰まった寒い朝だった。刑場には町や村から大勢の人が集まり、白い息を吐いてお仕置きの始まりを待っていた。又吉も一家五人で出かけてきた。後ろから押され、前にも動けず、又吉は周りを見渡した。知り合いの顔がいくつも見える。お絹の亭主もいた。側にいる二人の子供はお絹の子か。十歳くらいの男の子と、まだ小さな女子だ。息子の方は歯を食いしばり、指先が震えているのは寒いからだけではないだろう。娘はまだ訳が分からないようで、兄の着物の袖をつかんでいる。

 


敦賀茶町台場物語 その11

2021年04月09日 | 小説

敦賀茶町台場物語 その11

 

黒船が浦賀へやって来たのは六月三日である。それが、七月の末にはこのようなお達しが出るほどに、商売を怠って金銀を買い集める者が目立つようになった。日本が外国の植民地になりそうだからとの危機感による行動だろう。実に素早い反応である。金銀を買えるのは金持ちだけだから、そのような者を見て庶民たちも動揺し、焦燥感にかられて不穏な動きの気配があったのかもしれない。

このお達しのあった同じ月に、民家に所有する武具馬具の調査が行なわれ、祭礼用のものまでも書き上げるよう指示された。さらに、二十三日には武器御手当入用のための調達金が命ぜられ、二四日には昨年五月の江戸城西丸炎上で申し付けた上納金を武具御手当へ回すとの通知もあった。

翌安政元(一八五四)年四月には、藩主忠義が敦賀の台場を巡視した。七日に各台場から三発ずつ発射するのを見て、江戸へ戻って行った。

藩がこのようだから、町民が動揺するのは無理もない。しかも藩は、兵力の不足を補うために、格式のある町人や村の庄屋格の者に、大筒の稽古の軍役を申し付けた。気比宮の神官までが砲術の稽古にかり出された。月の内に休みの日を定めて、他は毎日の稽古となった。町人や農民が武術の稽古にかり出されるという状況は、身分制度の崩壊につながる重大な事態であり、そんな大事な事が黒船渡来の一件で引き起こされたのである。

 お上の動揺は配下の武士に伝わり、情報を掴んでいる商人や町役人も不安を覚え、それが庶民へも伝わった。

「あほ。役人に聞かれたら手鎖にされるぞ。いや、裸に剥かれて敲きの刑にされる」

 見せしめに敲かれるのは真っ平だ。

「ここのお上は、勤皇の志士とやらに狙われとるからな」

 殿さん連中も一枚岩ではない。内輪もめも聞こえてくる。

「そやそや。長州か薩摩の軍艦が敦賀に来る言うとるぞ。北から京に入って、玉(ぎょく)を取るんやと。そやけど、玉って何や?」

 敦賀を襲う軍艦は、外国船だけではないということだ。小浜藩主は幕府の忠臣だから、薩摩や長州とは敵対している。

「天子様という、日本で一番偉い人や」

 尊皇とか勤皇と言い、天子様と呼ばれるものがいるそうだ。

「一番偉いのは将軍様と違うのか?」

 それがこれまでの常識だった。

「しっ! 誰か来たぞ、黙れ」

 こんな話をしているのが知られたら、敲きの刑だけでは済まないだろう。

「……何や、犬か」

このような調子で、毎日の話の種には事欠かなかった。

 

敦賀湊に洋式船がはじめて入ったのは、安政五(一八五八)年九月二十四日のことだった。外国船ではない。越前大野藩の藩船で、武蔵の川崎で建造され、この六月に竣工した船だった。長さが十八間、幅が四間あった。八月に品川を出て、兵庫に寄り、西廻りで敦賀にやって来た。

この大野丸は、同藩の樺太経営のために建造されたもので、北海渡航に使われた。敦賀を根拠地としたために、毎年冬になると敦賀に帰港して、浦底に繋船して冬を越した。

最初の蒸気船が敦賀に入ったのは文久三(一八六三)年五月で、福井藩船の黒龍丸だった。茶町台場の完成直後である。

 


敦賀茶町台場物語 その10

2021年04月08日 | 小説

敦賀茶町台場物語 その10

 

外国の巨大軍艦の威力を知らない井の中の蛙だった幕府の役人たちは、海を渡ってやって来る軍事力の怖さを知らなかった。大筒を構えて打ち取れば、敵船など簡単に負かすことが出来るから、その節に奮闘すれば褒美を出す、と言うのだ。敵がどうであろうと、命を捨ててこの国を守る心得が大事なのだ。人員や物資の手配はしないが、精神力で頑張れば勝てると。

「そんな馬鹿な話があるかいな。金も人手も出しとるのに、今度は命やて。殺生な殿さんやなー」

 詳しい権力構造までは知りようがない庶民にとっては、お上は殿さんなのだ。

このお触れが出た同じ年、嘉永四(一八五一)年の四月には、小浜藩家老酒井内匠介(たくみのかみ)が、海辺御手当視察のために敦賀を巡察している。

二十四日に三方郡から縄間へ山道を越えて敦賀郡に入り、常宮に参詣したあと白木浦辺りを見分し、町に入って御陣屋に泊まった。翌日は金ヶ崎・町下・出村下・松原・鷲崎の大砲台場を見分し、西福寺へ赴き、永建寺・来迎寺を経て御陣屋に戻った。二十六日には気比宮へ参詣したのち、町奉行・代官・大目付を連れて木の芽峠・鉢伏山・天筒山へ行き、金前寺で休んだのち打它氏邸へ立ち寄ってから御陣屋に戻り、二十七日には東浦を見分して、翌日小浜へ帰っている。

そして翌年、ペリー率いる軍艦四艘、乗員二、〇〇〇人が浦賀沖にやって来た。その旗艦サスケハナは、当時世界最大規模の最新鋭艦で、二、四五〇トンもの大きさだった。千石船と呼ばれる大船でも一五〇トンから二〇〇トンまでであったから、その十数倍の巨大な船だったのである。しかもその船が蒸気の外輪で前後左右動き廻るのだ。もちろん巨大な大砲を何門も備えて いる。

敦賀の湊には常に京・大坂・近江の商人たちがやって来る。だから情報の伝わるのが早い。アメリカの軍艦がやって来て、大統領の国書を幕府に受理させ、来春再び来航すると言い残し、江戸湾にまで進んでから帰って行ったことがすぐ敦賀にも伝わった。

奉行所が言うように外国からの襲来はどうせ船で来るから大した人数ではなく、陸へ上がったところを討ち取れば容易いとは、もはや誰も信じなかった。

幕府は諸大名に意見上申を求めるうろたえぶりで、大船建造の禁を解き、オランダへ軍艦・鉄砲・兵書などを注文した。そして、品川など内海に大筒台場十一ヵ所の建設に取りかかった。

ペリーの最初の来航のすぐあと、大坂にいた藩主からのお達しが、八月三日に敦賀へ届いた。

『この節長崎表に異国船が渡来したが何事もなかった。それに、最前相州浦賀へ渡来の異国船も速やかに退帆している。それなのに浮説を流し、事態を顧みず、勝手に名目をつけて金銀を買い求める者少なからず。普段の商いにも支障が出ており、そのような事は慎むべきである。めいめい産業を正路実直に営むべし。もしこの申し渡しを聞かず、今後も同様な浮説を言い触らすならば、きつく罰することを厳重に申し付ける。 七月二十七日』

 


敦賀茶町台場物語 その9

2021年04月07日 | 小説

敦賀茶町台場物語 その9

 

奉行所から町人たちへ伝えられた湊の防御についての心得は次のものだった。

 鎖国制度のもとでは、敦賀湊へはいかなる外国船も入港を認められないことは言うまでもない。もしもそのような船があれば町民総がかりでこれを撃破しなければならなかった。

 しかし世界の情勢が変わり、日本へ通商を求める国が増え、日本近海を航行する外国船の増加によって、難破遭難する事態の生ずる恐れが現実のものとなり、より柔軟な対応が必要となった。そこで幕府は、そのような救助を求める外国船には薪・水を与えよという薪水令を天保一三(一八四二)年に出したが、中には補給と偽って日本の国情を探ろうとする船もあったようだ。

 敦賀へはそのような外国船の寄港はなかったが、将来に備えて敦賀の奉行所は次の触れを嘉永四(一八五一)年に出したのである。

『近年異国船が日本の近所へ罷り来て、薪水など所望するに事寄せて、または鯨取りなどを申し立て、とかく日本の様子を伺う模様にて、陸に上がり田畑を乱暴する事も有ると聞くので、公儀もその手当をすることとなった。

全体日本は、神代以来独立の国にて、これまで外国の指図を請うことも無く、わずかの大地も外国に取られた事も無い。外国の騒動の様子をよそに聞くが、外国とは関わり無くも何一つ不自由もなく先祖以来子々孫々まで安穏に暮らしているという、世界中に類いもなき有難い事にて、莫大の御大恩は申す迄もなく、右のような事故、今日に至り異国人に乱暴されるような事が万々一にも有れば、日本国中の大なる恥にて、開闢以来の人に対しても、末世の人に対しても申しわけない事になる。

それゆえ恐れながら、上御壱人様より下末々まで心を合わせ、この国を守り、昔より無かった恥をかかないように骨を折るのが第一の心得で、さらに他国も同様に、日本国中一家内同様の心得にて、万々一異国船が来て不作法致す時は、上下男女の差別なく命を捨ててこの国を守る心得が第一の務めである。

異国人何程大勢来ても、船に乗るだけの人数ゆえ、たかの知れたもので、大筒の鉄砲を打つにしても、一人一人狙っているよりは、船を打ち砕き、陸に待ち居て討ち取って、一致して働けば、何程の大船が幾艘もやって来ても、恐れるにたらず。

ただ汚き異国人に神国を汚させじと励むように心得て、その働きによっては格段のご褒美も有る。めいめい心がけ次第にて、日本国に対する大なるご奉公であるから、このように申すので、よくよく心得て励むように。

嘉永四年六月』

 


敦賀茶町台場物語 その8

2021年04月06日 | 小説

敦賀茶町台場物語 その8

 

又吉が茶町台場の築造現場に着くと、すでに人足たち列をなして並んでいた。今日の担当の肝煎の前で、自分の名前を帳面に記録してもらうためだ。

この台場普請には、本職の別なく、一日銀二匁五分が支給される。普通の大工の賃金が二匁二分だから、少しだけ上乗せになる。なれない人夫仕事は体にこたえるが、他の職人たちもみんな、その賃金が目当てでやって来ている。だが又吉は腕の良い大工だから、普段ならこの賃金以上を稼ぐ。大工の中でも稼ぎが良い方だ。こんな人足仕事は早くお役御免になりたいものだと思っていた。

台場普請の仕事は単調な力仕事だ。好きな本業を取り上げられての作業には、もう一つ気が乗り切らず、わだかまりが燻ぶったままの、嫌な気分の毎日だった。それは又吉だけではなかった。朝の仕事はじめから、早く時が過ぎて陽が傾き、帰りによる酒屋の隅の立ち飲み処で、仕事仲間たちと一杯やるのが待ち遠しい。

茶町台場の築造にかり出される前には、奉行所からのお触れを町の肝煎が聞かせに廻ってきて、台場の築造はお国のためだと言っていたが、どうも複雑な事情があるようで、酒屋に職人仲間が集まった折など、いつもその話で盛り上がる。

「外国の軍艦が襲ってくるというのは、あれはほんまかな?」と誰かが口火を切る。みんなが思っている不安だった。

「そのために茶町に台場を造っておるんや。今に敦賀にも黒船が来るで」

 黒船という流行の言葉には、表現できない時代の不安や覚束なさだけではなく、逆説的心理による漠然とした希望のようなものまでが含まれていた。この閉塞した、変わらぬことが美徳である時代を、そろそろ何かが打ち砕くのではないかという不安と期待である。

「そんなもん来たら、どうするんや?」

 黒船は敵だ。しかし、黒船を恐れるお上は、我ら町民の味方だろうか? いや、そこまで考えると訳が分からなくなる。

「逃げるしかないやろな。戦はお侍の仕事やさかい」

 戦うのはお上であり、刀を差して威張っている者たちの役目のはずだ。

「そやけど、茶町の固め場にしても、詰めるのは町人やないか。固め場言うても、武器も何もないし。台場が出来たら、そこの受け持ちにされるのはわしらに間違いないで。町人と、村の百姓が引っ張り出されるんや。わしらに守らせるつもりなんや」

 どうせそんなことになるだろうとは、誰もが思っていた。その流れには逆らえない。問題は、その流れなのだが。

「わしらに湊を守らせるなんて、武士も落ちたもんやな」

 小さな声で誰かが言った。こんなことは大きな声では言えない。奉行所のお役人がこんな酒屋に来ることはないが、手下のそのまた手下などがこっそりと聞き耳を立てていないとも限らない。

「敦賀は城下町と違うからや。城下町なら兵隊もおるやろに」

敦賀は大きな湊があり、商いも盛んにおこなわれているが城下町ではない。

敦賀は小浜に城を持つ小浜藩の領地である。敦賀は古くから越前の国の中心地であったが、小浜は若狭の国であり、違う国が一つにされたことの違和感からか、国を思う気持ちに蓋をされているような、軽く鬱屈した気分が底のほうに流れていた。

「奉行所からのお触れがあったやろ。あれは、わしらに命を捨てて戦えと言うとるで」