ゆるこだわりズム。

ゆる~くこだわる趣味・生活

中野重治の神がかり その4

2021年04月19日 | 評論

中野重治の神がかり その4

 

小林は中野と同じ年に、東京神田で生まれた。父は兵庫県出石郡に生まれ、幼くして元但馬藩家老職の小林家の養子となった人物で、小林の母は東京生まれだった。

 小林の個としての伝統とは東京の伝統だろう。小林の神には、中野のような素朴な汎神論的なものはなく、近代主義的な、「死んだ神」しかいない。伝統も、半ば借り物とするしかない。

 そんな小林の神となったのは「社会」だった。小林ほど「社会」を怖れた批評家はいない。

 小林は使用する言葉の無意味性も、文章の非論理性も隠してはいない。だが、反省はしていない。小林が時勢の先頭で呪文を唱えたのは、ただ自分を守るためだった。権力におもねるとか、強者に取り入って利益を得ようとしたのではない。小林はただ「社会」を怖れたのだ。

 「超人という言葉に人間という言葉がとって代わった。人間という符牒を社会という符牒が追い抜いた。(中略)/どんな個人でも、この世にその足跡を残そうと思えば、何等かの意味で自分の生きている社会の協賛を経なければならない。言い代えれば社会に負けなければならぬ。社会は常に個人に勝つ。思想史とは社会の個人に対する戦勝史に他ならぬ。」(「✕への手紙」)

 

 そんな小林の「社会」はプルードンのそれに似ている。

 プルードンは社会を集団的人間として人格化し、人間に対立させた。さらに、社会にプロメテウスという名をつけて、剰余価値を生み出す神秘的なものとして神格化した(『貧困の科学』)。

 それを批判したのがマルクスだった。

 「プルードン氏が復活させたこのプロメテウスとはいったい何か? それは社会であり、諸階級の敵対を基礎とする社会的諸関係である。」(『哲学の貧困』)

 マルクスは社会を人格化せず、個人に対立するものではなく、諸個人の一定の関係だとした。

 だが、「社会」を怖れる小林は、それを実体的にとらえて憑かれてしまう。

 「社会」は個人に「実生活」を強い、「犠牲」を払わせ、「伝統」を成立させる。

 「社会」は最強の生き物であり、逆らうことはできないのだ。

 呪文や予言に証明や説明は必要ない。それに酔えればいい。それで売れるのだ。商品は買われることによって価値が証明される。それ以上の価値は必要ないと、小林は言う。多く売れる商品が良い商品なのだから、論理的な文章よりも呪文が売れるのならば、その方が立派な商品なのだ。

 小林は自分の文章を商品だと思っている。

 中野は自分の文章を商品以前のものと思っている。その決定的な差異こそ、二人の「神」の違いなのだ。

 中野は論理的に小林と格闘しようとするが、噛み合わない。小林には、論理的に牙を剥く中野が、本当は非論理的な感性の持ち主であることが判っていた。人を酔わせる呪文を唱ええた小林には、それなりの鋭い直感がそなわっていたのだ。

 勝負の土俵も中野に不利だったが、結局、中野は小林を負かすことは出来なかった。

 

 中野は、支配者の文化の伝統にではなく、被支配者の文化の伝統の中に、日本的美意識の継承を見出そうとしていた。ファシズム化された日本的な美意識を救い出し、鍛えることが中野の課題としてあった。

 ファシズムに文学の問題を見たからこそ、中野は神がかりになるまで追い詰められながらも転向しえたはずだ。政治ではなく文学の追究が中野の課題としてあった。

 中野は、茂吉、鴎外、宣長などを研究し、この課題に取り組んだ。

 だが、戦後の中野は政治に深く足を取られた。この課題意識は次第に希薄になり、中野の仕事として不十分にしか展開されずに残された。

 

 日本的な革命の伝統である百姓一揆のイデオロギーは、対立ではなく同一の、同等平等の徹底を根拠としている。それが原日本的美意識として中野が取り出したものだ。しかしそれは両刃の剣であり、一味同心の非対立のイデオロギーは、ファシズムに利用される、ものでもある。これを被支配者の側から鍛えるという中野の課題は今も生きている。

 


中野重治の神がかり その3

2021年04月18日 | 評論

中野重治の神がかり その3

 

中野にとっての転向とは、自分の属する共同体を自ら捨て去ることだ。共同体の外部に出ることなのだ。それはただ一人で別の生き物になる決意とも言えるほど、辛いことだった。

 一つの共同体から別の共同体へ移る転向ならば容易い。佐野・鍋山らの転向が酷い裏切りの現象ではあっても、共産党という共同体から天皇主義という共同体への住み替えであって、そこには共同体を失う恐怖はない。共同体に安住していることに変わりはないからだ。

 中野らの共産主義者もまた、共産党という共同体に属するには、その前に属していたそれぞれの世間からの転向を経験していた。共産党からの転向の前に、共産党への転向があった。

 最初の転向を中野は『歌のわかれ』として描いている。「歌のわかれ」は新たな共同体との出会いであり、そこで中野はそれまでの共同体を捨てるのだが、そこには何か希望があった。それまでにない美しいものがあり、絶望的な恐怖の淵に立たされている意識はない。

 ところが共産党からの転向において、中野は孤高の身とならざるをえなかった。共産党という共同体を捨てた中野は、次に属すべき共同体を見出してはいない。以前の共同体には戻れない。「村の家」は疲弊していた。

 中野がひょいと捨てたのは党であって文学ではない。文学を捨てないために政治的な転向を受け入れたのだった。しかし当時、中野らの文学は政治と不可分だった。だから政治的転向の言い訳をする者もいたが、中野は一切言い訳をせず、ただ転向した事実を述べるだけで説明はしなかった。天啓による転向だとは自分でも気づかなかったのだ。

 それで彼は共同体の外部に立つことを余儀なくされた。

 観念の孤独の中で、中野は自分の個を見出した。そして、中野という個は、個として戦う拠りどころを、個の伝統としての神話に求めた。依拠するところが自分一個しかないときに、人は自分という個の中の、何に光明を見出すのか? 一個の経験や知識では弱く小さい。共同体を失った個の拠りどころは、個の非論理的深層であり、神話なのだ。

 中野は共産党員だった。共産主義者として無神論者である中野の転向が、天啓によってなされたと中野自身が描いているとは気づかれにくいことだ。だが、無神論も神の承認の一つの態度であるとマルクスは言っている。神に憑かれていない者などいない。「私は組織を裏切ることも仕事仲間を裏切ることも苦痛を感じなくなりはじめていた。ただ論理のギャップを飛びこえるのが苦しかった」(『一つの小さな記録』)と中野は書いているが、そのギャップを「ひょいと」神話的(非論理的)に飛びこえたのだった。

 「ひょいと」中野は超越する。「ひょいとそう思った途端に彼は口が乾あがるのを感じた」とか、「ひょいと『かつぽう』がいないのに気がついた」の「ひょいと」だ。これは中野の好きな言葉で、この副詞を中野は超越の現場で使っている。

 これは親鸞が『教行信証』で言う「横超」に似ている。他力の悟りは横様に超ぶ。ひょいと悟るのだ。

 

 政治的には転向を余儀なくされた中野だが、文学的には非転向を貫いた。だが多くの者が寝返った。

 日本の被支配者たち革命運動の伝統を省みなかったからこそ、転向者の天皇制賛美という事態を出現させたとも言える。マルクス主義者が簡単に天皇制ファシストになりえたのだ。本当のマルクス主義者がいたのかという問題はここでは取り上げない。

 中野の主要な論点は、小林の批評文が反論理的だということだった。論理の問題は、非論理的なところもある中野には苦手な分野のはずだが、中野は反論理的ではない。論理を愛している。しかし、中野にはやはり、小林らを論理で批判するのは難儀だったようだ。「わからない言いまわしでなしには小林は何ひとついえない」と食ってかかっても、勝てなかった。

 


中野重治の神がかり その2

2021年04月17日 | 評論

中野重治の神がかり その2

 

 「転向しようか。しよう‥‥?」という考えは常にあったはずだ。打ち消しても打ち消しても生じてきた。その迷いが突然消えた。消えたということは心が決まったということで、「ひょいと」思ったのは転向への決心だった。それで口が乾あがり、食欲がなくなった。

 自分の弱さに(身体や精神の弱さだけではなく、党の弱さにも)嘆いていると、どこからともなく声が聞こえてきた。中野は「両頬が冷たくなって床の上に起き上がり、きょろきょろ見まわした。それはまるで能舞台に亡霊が現われたかのようだ。その亡霊が中野に何かを告げ、そして「それが消えた」。すると、食欲が戻り、泣きながら、食う。つまり、この文章のはじめに戻る。納得が行くまで何度でも繰り返せるようになっている。

 

 このように中野は、論理的な時間とは異なる心理的な時間の流れを描こうとして、このような不思議な文章を書いたのだ。

 時間の混乱は論理の混乱であり、思考の混乱とみなされる。それは文章として間違いであるか、それとも神話であるかだ。中野は近代小説の、それも転向心理を描写する核心のところを、神話として書いたのだ。

 事実、中野は神話を引用している。

 「命のまたけむ人はたたみこも平群の山の熊かしが葉をうずにさせその子」

 この歌は、白猪によって傷付けられた倭建命が能煩野に至って故郷を偲んで歌ったものだ。國思ひ歌と呼ばれている。命を大切にしたい者は、故郷の樫の葉を髪に挿すまじないをせよ、との意味だ。

 れいき(霊気)を感じて「床の上に起き上がり、きょろきょろ見まわした」のは、この歌が聞こえたからだ。中野の心の耳には、それが祖父の声で聞こえたのだろう。力強い、崇高な、美しい声だ。楽天的でもある。豪傑の声だ。

 死んではならぬ、恥をさらしてでも生きよ、お前にはお前自身の理想があるではないか、転向してでも生きるのだ、転向はたしかに党を裏切る、だが現実の党はお前を裏切っているではないか、お前は理想を、文学を裏切ってはならない。

 先祖が中野に告げた。美しい天啓の描写だ。

 中野は越前一向一揆が戦われた地域で生まれ育った。土地の記憶は代々受け継がれ、それぞれの人間形成に取り入れられる。

 中野の祖父は大地主と戦って獄に入れられたことがある(明治六年越前護法大一揆)。農民の先頭に立って武家と裁判で永く争いもした。その祖父に中野は育てられた。父は父で、資本主義に巻き込まれて疲弊する村と家を救うためには二人の息子を最高学府へ進ませるしかないと、家を離れて転々とする下級役人の生活を闘った祖母や母も「百姓女」としての生活を闘ってきた。

 共産党の短い未熟な闘いよりも、はるかに重い戦いの実践の伝統が、故郷に、先祖からのものとして中野にはあったのだ。

 続いて中野はギリシャ神話へつないでいる。

 古代ギリシャ(ヘラス)の人々は鶯を愛した。

 二人の姉妹があり、姉がある王に嫁いで子をもうけた。ところが王は妹を犯し、舌を切る。妹は織物を織って姉に王の非道を知らせ、姉妹は王への復讐のために、姉と王との子を殺して王に食べさせる。それを知った王が斧を手に姉妹を追いかけ、ゼウスがその三人を鳥に変えた。姉は鶯になり、愛しい子の名を鳴いた。

 大義(文学)のために、子(現実の歪んだ党)を殺して鶯にされてもよい、「鶯として死ねる」と、中野はうれし泪を流すのだ。

 ここが中野の転向の場面なのだ。

 転向を論理的な目で見ようとする者には、中野の転向は見えない。

 人が鳥になる話を中野は書いている。

 「あれは人間がとりのなったのだ。鳥に化けたのではない。化けたのとはちがう。(中略)/おっかさんは悲しくなり、弱りはてて鳥になってしまった。」(『梨の花』)

 化けるのは呪術的だが、鳥に成ってしまうのは神話的だ。倭建命は白鳥と化す。中野は『古事記』以前の神話を見ている。

 転向の心理場面を非論理的に神話として中野が描いたのは、中野にとっての転向が、鳥に化けるのではなく、鳥に成ってしまうことだからだ。

 


中野重治の神がかり その1

2021年04月16日 | 評論

中野重治の神がかり その1

 

中野重治を取り上げるにはどうしても政治的転向の問題に触れないわけにはいかないし、それが当然だとされている。だが、中野の転向を、当時の状況を踏まえて原因から説き起こしたとしても、それで論証されるのは抽象としての中野の転向であって、個としての中野重治の転向の核心に触れることは難しい。

 ここで言う抽象的な転向とは、中野と父親との関係を、満田郁夫を例外として、吉本隆明が早くから、そして柄谷行人までもが、進歩的知識人対封建的ファシストという対立の図式を描いて納得してしまうような事態を指している。

 それは何よりも、「転向」という言葉による思想操作の罠に、皆が嵌っているからであり、そのことは中野自身も例外ではなかった。

 この論考は、『村の家』の父と息子に対立は無かったとする満田郁夫氏の論考に触発されて、中野の転向決意の心理場面を私なりに読み取ったもので、一つの問題提起として受け止めていただきたい。

 中野は、文学を貫くために政治的転向の汚名を浴びた。それは、筆を折れと言う父に対して「やはり書いて行きたいと思います。」と答えたことではっきりしている。それなのに中野の転向が問題とされるのは、転向に至る心理描写が無いとされるからだ。

 しかし中野は書いている。自身の転向へと至る心理的な場面をはっきりと描いている。ただ、それが読者にも中野自身にも気づかれていないだけなのだ。

 中野には、事後的な気づきが多い。中野にある「わかりにくさ」の一端は、この事後的な「気づき」にある。これは中野自身の特質だと言える。

 「中野さんはね、大分前だけど、俺は死ぬときも、しまった、と云うかな、って云ってたのよ」(佐多稲子『夏の栞』)

 事後的な気づきは「しまった!」として、突如何の脈絡もなしにあらわれることが多い。だから中野は、自分の誤りを後になって認めることが多かった。そして、他人の誤りについても、事後的に追求した。指摘された者たちは「何を今更!」と思っただろう。

 中野の事後的な気づきは、意識的な内省の結果としてあらわれるものではない。突然に、超越的にあらわれる。超越的なものとは「神」と呼ぶしかないようなものだ。

 もちろんキリスト教などの神ではない。中野の先祖または伝統と言い換えてもよいが、やはりそれは「神」なのだ。

 中野は宗教的な環境に育った。宗派的なよいう意味ではなく、原始信仰的な、あるいは自然的・太古的な宗教性と言った方がいい。

 そして彼は、先祖を自然信仰的に崇拝していた。

 「私の先祖どもは記録を残さずに去っています。こういう先祖どもは必ずや私を助けてくれるだろうと思います。」(「蟹シャボテンの花」)

 そして、中野に政治的転向を決意させたものもまた、この「神」だった。それを読み取ってみよう。

 

 「ある日彼は細い手でお菜を摘み上げ、心で三、四の友達、妻、父、妹の名を呼びながら顎を震わせて泣きだした。『失わなかったぞ、失わなかったぞ!』と咽喉声でいつてお菜をむしやむしやと食った。彼は自分の心を焼鳥の切れみたいな手でさわられるものに感じた。一時間ほど前に浮かんだ、それまで物理的に不可能に思われていた『転向しようか。しよう‥‥‥?』という考えがいま消えたのだった。ひょいとそう思ったとたんに彼は口が乾あがるのを感じた。昼めしが来て受け取ったが、病気は食い気からと思って今朝までどしどし食つていたのがひと口も食えなかつた。まつたく食欲がなく、食欲の存在を考えるだけで吐きそうになった。両頬が冷たくなつて床の上に起き上がり、きょろきょろ見まわした。どうしてそれが消えたか彼は知らなかつた。突然唾が出てきて、ぽたぽた泪を落としながらがつがつ噛んだ。『命のまたけむ人は‥‥うずにさせその子』――おれもヘラスの鶯として死ねるーー彼はうれし泪が出てきた。」(『村の家』)

 

 ここに転向を決意した心理の描写がある。

 実際に弁護士との間で転向を悩む場面よりも時間的にひと月も前の描写として設定されているため異論を唱える評者もいるが、先入観を持たずに読めば見えてくるものがある。

 中野には非論理的な面が多い。自分の決意を論理的に説明するのに時間がかかる。あるいは出来ない場合もある。転向を決意してから、それを表明するまでに一ヶ月かかったとしても不思議ではない。

 勉次は「再び保釈願を書き、政治的活動をせぬという上申書を書き」、「病室に」はいれるよう要求した。この時点では共産党員であることには触れず、転向していない。そして、病室に入れられて、肺浸潤であるという病名を告げられ、体重は四四・五キロに減っていた。ここから、先に引用した転向決意の文章がはじまる。

 友人や家族の名を呼びながら泣く。そして食う。「失わなかったぞ!」というのは、転向をしないということではない。転向はしても失わなかったものがある! という叫びなのだ。そのように読めるのは、中野が普段は見えない何かを見たように書いているからだ。

 

 


労働価値論の可能性ーー贈与としての労働ーーその12

2021年02月21日 | 評論

労働価値論の可能性ーー贈与としての労働ーーその12

十二、労働価値論の可能性

 

労働の価値は経済的な価値ではなく、人間的・生命的な価値なのだ。中上の言い方では、経済学や社会科学ではなく文学的価値、ということになる。「人間の在り方」と「価値」とが同義であり、存在概念と価値概念とが合致する世界を「文学」と呼んでいることになる。この合致を実践において「哲学」と捉える廣松(『新哲学入門』第三章)と、同じ立場になるのかもしれない。柳田も、政治的や経済的ではない農民の生活の在り方として、労働を捉えた。生活そのものとしての労働に、価値を見たのだった。

労働時間以外の自由時間の為に嫌々働くとはいえ、人は労働においてより良い仕事をしようとし、物や人々と協力しようとする。それらは全て、経済的利益のためだろうか。支配・監督されているからなのだろうか。そのような側面が強いことは確かだか、それだけではないだろう。奴隷制下の労働ではあっても、労働そのものの喜びを、労働者は感じる時があるのではないだろうか。自分の労働が人に役立つという喜びを、それで賃金を手に人れるという事とは別に、覚える時があるのではないのか。

現実の労働は、人の役に立ち、喜ばれることばかりではない。人を不幸にし自然を破壊し、嘘をつき、屈辱にまみれ、憎しみや悲しみや苦しみや怒りを生み出す仕事も多く、労働そのものが価値なのだという実感を得ることは少ないかもしれない。人を蹴落とし踏みつけて、自分だけが得をするのが働くということだとさえ、思っている人もいるだろう。

だが、それらは全て、経済的労働価値論の基盤から生じている。人間には闘争本能があるとか、競争が進歩をもたらすとか、人間は政治的動物だとか言うのは、贈与としての労働が忘れられ、取得としての労働に歪められた結果、後になって人間に植えつけられた観念にすぎない。

マルクスも含めた経済的労働価値論が日常的イデオロギーとなって、労働観念を歪め、本来の労働観が隠蔽された。そして、誤った労働観に立って労働者の解放が唱えられた。労働者は労働から解放されるのではなく、自由な労働を(再び)自分のものにしなければならないのだ。

労働者が賃金奴隷であるということはよく言われるが、間題は、奴隷である労働者が、なぜ奴隷に甘んじているのかだ。現代の賃金労働者の実践行動には、奴隷制度を崩壊させようとする方向性が、ほとんど見られない。現在の労働制度が、人間や自然を破壊している事実には事欠かないのに。

賃金労働者は、自分が奴隷であることに気づかないのか。従来は、そう考えられていた。だから、マルクスの理論を宣伝し、労働者は搾取されており、現代が賃金で縛られた奴隷制の時代であることの理解を求めた。

しかし、労働者は、自分が賃金に縛られた奴隷であることを知っている。日々の賃金労働が、それを労働者に教えている。労働者が知らないのは、労働が奴隷の行為ではなくて、労働こそが人間としての価値を持つ喜悦の行為であることだ。だが、賃金労働者は、自分が労働において奴隷であると実感しており、労働以外の時間のために奴隷的労働に従事するのだと理解している。

奴隷は、鎖でつながれているから奴隷なのではない。奴隷だから、鎖でつながれているのだ。

奴隷としての存在観と価値観からは、奴隷としての実践観しか生まれない。奴隷解放の実践観は、奴隷ではない存在観と価値観から生まれる。労働が奴隷の活動だという意識からは、奴隷解放の実践は生まれない。労働は奴隷的な非人間的な活動ではなく、労働は本来人間的価値に満ちた活動であり、生命の喜びを分かち合う行為なのだ。このことを深く認識する所から労働者の存在観と価値観が変革され、奴隷解放の実践観が生まれることになるのではないだろうか。労働観・労働論の変更が、労働者としての存在観と価値観を変革し、新たな実践の意識が生まれるのではないだろうか。

人間的労働無価値論である経済的労働価値論に、未来はない。地球そのものが破壊されるだけだ。人間的・自然的労働価値論の復興こそが望まれる。