ゆるこだわりズム。

ゆる~くこだわる趣味・生活

2021年 桜が満開です

2021年03月31日 | 日常

今年も桜が満開になりました。

晴れてはいますが、黄砂も降っていますので、すっきりしないコロナ頃です。

一応、閼伽川公園の桜を記録しておきます。

 


敦賀茶町台場物語 その2

2021年03月30日 | 小説

敦賀茶町台場物語 その2

 

庄町の長屋に住む大工の又吉は、今朝も茶町(ちゃまち)の浜へ土運び人足の仕事に出かけた。秋晴れの朝はすがすがしくて気持ちがいいが、又吉の足取りは幾分動きが重い。好きな大工仕事に行くのではないからだ。又吉の本職である大工の仕事は、当分のあいだ出来そうにない。奉行所から禁止されているのだ。

又吉は三十半ばを過ぎた腕のよい大工で、大工仲間の内ではまだ若い方だが、棟梁たちからは一目置かれており、若い衆からも頼りにされている。上背もあり、きりっとした男前だと言われている。役者絵の誰それに似ているとは何度も言われたが、又吉自身は本気にしていない。

又吉には紙漉き屋の娘である妻のお美代との間に三人の子供がいる。その日暮らしの家計だが、何とか生活できていた。しかし、本業の大工の仕事がしばらく出来ず、人足の賃銀は一律なので又吉にとっては損になる。その上、家屋普請に付き物の祝儀や付け届けのまったく無い分、収入は随分減っている。奉行所からの命令だから、仕方なく人足仕事に行くのだった。

茶町の浜へ行くには、庄の川を西へ渡らなければならない。庄の川には橋が二つ架かっている。上から庄の橋と今橋(いまばし)の二つで、庄町にあるのが庄の橋だ。だから、庄の橋を渡るのが又吉の家から一番近いのだが、庄の橋の西詰めには奉行所や御陣屋といった役所があり、橋には槍を掴んだ番人の下役人が二人立っている。又吉は庄の橋を渡らずに町中を浜の方へ下って庄の川の河口近くまで行き、北隣の金ケ辻子町(かねがずしまち)から今橋を渡ることにしている。

金ヶ辻子町はその昔に、佐渡の金山の役人が住んだとか、出雲の国から来た鉄売りが住んだとも言われている。今では鉄問屋もあるが、敦賀中の鍛冶屋が集まっていた。金物には縁がある町だ。

何も悪いことはしておらず、しかも茶町の浜へ行くのは奉行所から命じられた仕事なのだから、堂々と庄の橋を渡れば良いものを、別段遠回りになる訳でもないからと、又吉は自分に言い聞かせていた。又吉でなくとも、朝から橋の番人に住処と名前と行き先を告げるのは煩わしい。今橋にも番人がいるが、今橋の両詰めの町は町人町だから、番人も橋の東詰めの金ケ辻子町と、西詰めの茶町とから交代で出ている。又吉とも顔なじみなので、朝の挨拶だけで通してくれる

今橋は寛永一二(一六三五)年に架けられた。はじめは土橋で、長さが一六間、幅が三間あり、敦賀一の大橋になった。毎年六月末の夏越の祓(なごしのはらえ)では、人形に切った紙に名を書き、その紙で身体を撫で、息を吹きかけて罪や穢れを移し、今橋の上から川に流して清めんと、大勢の人が出かけて来る習わしだ。夏の暑い時分には涼を求めて橋の上で夜風にあたり、その人出目当てに茶売りなどもやって来る。度々、役人が出張って人を蹴散らすのも風物詩となっている。

今朝は茶町から二人が橋番に出ていた。

「よお、又吉さん。今日も台場かね」

又吉の姿を見て先に声をかけたのは、茶町の作兵衛だった。

作兵衛は茶問屋の番頭をしている。茶町という名の町なのに、茶町に茶問屋は一軒だけしかない。それでも昔は茶問屋が軒を並べていたそうだ。元々茶町は今橋が架かった後に、敦賀中の茶問屋を集中移転させて出来たと言う。

 


敦賀茶町台場物語 その1

2021年03月29日 | 小説

敦賀茶町台場物語 その1

 

越前敦賀は天然の良港であり、町は湊と共に発展してきた。海運が発達すると、数えきれないほどの大船小船が、浜辺から伸びた桟橋やずっと沖合にまで、年中停泊係留されるようになった。船荷の積み降ろしに小舟が行き交い、船頭や水主に乗客らが大船に乗り込み、降りてきた。その男たちを目当てに茶屋遊郭宿屋の女たちは小舟で客引きに出かける。陸に上がる前に客を捉まえてしまおうというのだ。せわしない風習が伝わって来たものだと、昔ながらの敦賀の商人は眉を顰めるが、よその湊で流行っているものを止める訳にはいかない。浜辺だけではない、船の上でも嬌声が上がる。

その湊の浜から南へ、敦賀の町がひろがっている。町人が住む長屋や、各種商人の町屋が立ち並び、大小の寺院や神社に祠などもある。縦横に走る川には荷を積んだ舟が浮かび、舟から川岸の倉へと荷を運ぶ人足の掛け声がいくつも聞こえてくる。

往来には魚売りの女が頭に生きのいい魚の入った盥を載せて「かれい、召せよー。あじ、いらんかねー」などと声をかけている。近在の村々からは野菜を載せた笊を天秤棒で担いだ百姓が、商家の裏口や長屋の狭い通りまでを練り歩き、家人と親しげに喋りながら商いに精を出している。

敦賀の町の中ほどに庄町(しょうのまち)がある。庄の川の東岸にあり、西岸の御陣屋や奉行所とは庄の橋で繋がっている。庄の橋の庄の字は、昔は兄鷹と書いた。兄鷹と書いてしょうと読むのは、鷹の生態から来ている。鷹匠の言葉なのだ。鷹の夫婦は、雄が雌よりも小さい。それで、雄を兄鷹と書いて小(しょう)と呼び、雌を弟鷹と書いて大(だい)と呼ぶ。

鷹匠にしか通じない言葉を橋の名に付けたのには訳がある。

我が国に鷹匠の秘術が伝わったのは、唐から鷹匠がやって来て教えたからであった。唐人鷹匠が鷹狩りの秘術を教えた所が敦賀津の、この橋下の河原辺りだった。それで橋の名が兄鷹(しょう)の橋となり、橋詰め町の町名が兄鷹の町となった。橋に鷹のとまる図が、今でも庄の町の町印である。

鷹匠各流派の鷹書には、敦賀津で唐人鷹匠から鷹狩りの秘伝を習得したのは、京の都からやって来た若侍、源政頼(みなもとのせいらい)だと伝わっている。政頼は武人として朝廷からの信頼が厚く、後に出羽守として奥羽へ赴いた。しかし政頼は、蝦夷討伐には消極的だったと記録に残っている。鷹狩りに使う鷹は、雛もしくは成長後に捕まえて馴らす。奥羽は良鷹の産地なので、蝦夷との難しい時期だったが、内心嬉々として赴いただろう。政頼はもちろん鷹飼いの祖として名を馳せた。政頼死する時、背に鷹の羽が生え、顔も鷹のような嘴になったとまで噂された。

 


マルクス剰余価値論批判序説 その37

2021年03月28日 | 哲学思想

マルクス剰余価値論批判序説 その37

 

(17)同上、五九三頁。

(18)貨幤(商品)との関係による階級規定は、便宜的なものでしかない。このような階級規定は、ドゥルプラス(『「政治経済学」とマルクス主義』岩波書店)に見ることができる。「現存社会は商品所持者間の一般的関係という視角からではなく、所持する商品の性質によって定義される個人の二つの階級のあいだの特殊な関係という視角から、者義小することができ、また、この関係は搾取関係として理解することができる。」(同書、三一六頁)。ドゥルプラスは「商品は《交換される物》ではない(二四七頁)」という正しい視点から出発しているのだが、貨幤と引き換えられるもの全てを商品であるとして、労働力もまた商品の一種にしてしまう。労働(カ)と貨幤との引換を、商品交換と同列に理解するのである。したがって剰余価値は、資本家が労働者に与える一般的商品と、労働者が資本家に与える特殊的商品との、商品の性質の違いから発生させられる。ここから、階級は上記のように規定されるのだが、商品も貨幤も、労働の取得の物的形式であるから、階級は労働との関係で規定されなければならない。労働が他者(他個人ではない)に取得される関係が、固定的に構造化されるときに階級が生するのである。

(19)同、五四二頁。

(20)「彼が交換するものは、交換価値とか富ではなく、生活手段であり、彼の生命力を維持し、肉体的、ゾツィアールな欲求など、彼の諸欲求一般を充足するための諸対象である。それは、生活手段という対象化された労働のかたちをとった、一定の等価物であり、彼の労働の生産費用によって測られる。彼が引き渡すものは、彼の労働にたいする処分権である。」(『資本論草稿集』第一巻、三四一頁)。「彼が資本と交換するものは、彼がたとえば二〇年間に支出する彼の全労働能力なのである。彼にこの二〇年分を一度に支払うかわりに、資本は、彼が労働能力を資本の処分にゆだねるに応じて、小刻みに区切って、たとえば週ごとに、それの支払いをする。」(同、三五〇~三五一頁)。

(21)「この全体の過程をその結果である生産物の立場から見れば、二つのもの、労働手段と労働対象とは生産手段として現われ、労働そのものは生産的労働として現われる。(MEW二三、一九六頁)。マルクスの「労働」が「生産」であるという批判は、多くの論者によってなされている。廣松渉氏は穏やかな表現で、次のように述べている。「概して言えば、マルクスは『労働』という概念を『生産活動』とほほ等置できる広義に用いている。」(『現代思想』一九九〇年四月、一三四~一三五頁)。

(22)この、商品交換の始まりをゲマインヴェーゼンの外部に見るマルクスの説明は、それを歴史事実的な、実態的なものと想定してのことではない。事実的な説明ならば、マルクスはゲマインヴェーゼンではなく、ゲマインデなどの実在の共同体を指す言葉を使うはずである。この説明で、マルクスがゲマインヴェーゼン(共同制度・共同組織・共同本質・共同存在・共同生命・原生的完結

態など)を使っていることは、それが実態的説明ではなく、概念的説明であることを示している。また、『経済学批判』では、世界市場に対する国内市場を、ゲマインヴェーゼンと呼んでいる。マルクスが、商品交換の発生の点をゲマインヴェーゼンの外部に観たことを、「共同体と共同体の間」というように図形的に理解すると、価値形式論をも読み違えることになる。

 

 


マルクス剰余価値論批判序説 その36

2021年03月27日 | 哲学思想

マルクス剰余価値論批判序説 その36

 

(1)「労働がどのようにして使用価値を増加させることができるか、ということを理解するのは、容易である。むずかしいのは、労働がどのようにして前提されたもの以上の諸交換価値をつくりだすことができるか、という点である。」(『資本論草稿集』第一巻、三八七頁)。

(2) MEW二三、九〇頁。

(3)同、六一三頁。

(4)同、六一二頁。

(5)岩井克人氏(『ヴェニスの商人の資本論』ちくま学芸文庫、七九、一〇三頁)が主張している剰余価値論は、その内実としては平田清明氏の言う「増加価値」(『社会形成の経験と概念』岩波書店、九八頁)の説明でしかない。日常的概念としての企業利潤をマルクスの剰余価値だとしてしまうのでは、マルクスの問題意識を無視することになる。マルクスは、個々の資本家の価値が増加するのは・どのようにしてなされるのかという、常識的問題を設定したのではない。新たな価値が、どのようにして産み出されるのかを、問うたのである。差異がどのようにして産み出されるのかという問いに対して、岩井氏はそこに差異があるからだと答える。差異は産み出されるのではなく、別の差異が転化するのだと言うのである。たしかに、個別資本家の価値増加の一部分の説明にはなっているが、マルクスは価値の移動を問題にしたのではない。価値が、ある所から別の所に移動するには、すでに価値の存在が前提される。交換でも盗みでも、価値の移動を行なうには、価値が存在していなければならないのである。その価値は、どのようにして産み出されたのか。価値が新たな価値を産み出す(自己増殖)とは、どのようなことなのかが問われているのである。しかし、労働力商品(労働力と貨幤との交換)を自明の前提にしておいて労働価値説を否定しようとする非論理への無自覚さは、論理的すぎるマルクスの剰余価値論の問題設定の高みにすら、届かないのである。

(6)「その純粋な形態では、商品交換は等価どうしの交換であり、したがって、価値を増やす手段ではない。」( MEW二三、一七三頁)。

(7)「剰余価値の形成、したがってまた貨帑の資本への転化は、売り手が商品をその価値よりも高く売るということによっても、また、買い手が商品をその価値よりも安く買うということによっても、説明することはできない。」(同、一七五頁)。

(8)「等価どうしが交換されるとすれば剰余価値は生まれないし、非等価どうしが交換されるとしてもやはり剰余価値は生まれない。流通または商品交換は価値を創造しない。」(同、一七七~一七八頁)。

(9)同、一七九~一八〇頁。

(10) 同、一八〇~一八一頁。

(11)「売るために買うこと、または、もっと完全に言えば、より高く売るために買うこと、G―W―‘Gは、たしかに、ただ資本の一つの種類だけに、商人資本だけに、特有な形式のように見える。しかし、産業的資本もまた、商品に転化し商品の販売によってより多くの貨幤に再転化する貨幤である。買いと売りとの中間で、すなわち流通部面の外部で、行なわれるかもしれない行為は、この運動の形式を少しも変えるものではない。」(同、一七〇頁)。

(12)「労働過程は、資本家が買った物と物とのあいだの、彼に属する物と物とのあいだの、一過程である。それゆえ、この過程の生産物が彼のものであるのは、ちょうど、彼のぶどう酒ぐらのなかの発酵過程の産物が彼のものであるようなものである。」(同、二〇〇頁)。

(13)同、二〇九頁。

(14) 「古典派経済学は、日常的生活からこれという批判もなしに『労働の価格』という範疇を借りてきて、それからあとで、どのようにこの価格が規定されるか? を問題にした。……他の諸商品の場合と同じに、この価値も次にはさらに生産費によって規定された。だが、生産費ーー労働者の生産費。すなわち、労働者そのものを生産または再生産するための費用とはなにか? ……経済学が労働の価値と呼ぶものは、じつは労働力の価値なのであり、……」(同、五六〇ー五六一頁)。このようにマルクスは、プルジョア経済学が「自分自身の分析の成果を意識していなかった」のに対して、プルジョア経済学に代わって自分がその成果を意識しただけだと、言っている。労働の価値とは、じつは労働力の価値なのだというマルクスの発見は、労働とは労働する行為という労働者の流動的存在状態なのだから、それを労働者とは別の対象として提えるには、労働者が持っている労働能力(可能性)として把握するしかない、というものである。これは、観点の切り替えであって、労働を価値(商品)と見なすプルジョア経済学の立場を離れるものではない。たしかに、労働の価値規定は科学的になった。が、同時に、労働力価値規定は、賃金を労働力の価格として、労働を商品とみなして、労働の取得が商品交換という合理的なものであるとするプルジョア経済学の地平に、マルクスを縛り付けることになるのである。したがって、労働から労働力という言葉の切り替えを分析しているアルチュセール(『資本論を読む』合同出版、二二 ー三二頁)が見出している「地盤の変更」とは、「科学的」なーープルジョア的なーー認識の進展にすぎないのである。

(15)同、一八四ー一八五頁。

(16)同、一八五~一八七頁。「こうしてこの独特な商品所持者の種族が商品市場で永久化される。」のであり、そのための費用が賃金である。労働者階級の維持の最低限が賃金額の原則であり、それを不変数(ラサールの賃金鉄則)とするか、それとも変数(マルクスの階級闘争論)とするかの違いがあるが、両者とも、賃金が労働の対価ではないとするところでは一致している。しかしマルクスは、ラサール批判の行き過ぎか、あるいは自分の商品交換法則にもとづく賃金論の整合性に酔っていたためか、賃金を労働力の(必然的に不払の部分を含む)対価であるとする。これは、資本制生産を奴隷制であるとする一方で、近代合理的なものとして捉えようとするプルジョア啓蒙家としてのマルクスの現われである。