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マルクス剰余価値論批判序説 その9

2021年02月28日 | 哲学思想

マルクス剰余価値論批判序説 その9

 

7、物象による媒介

 

さらに、社会は、物象に媒介されることによって成り立っている諸個人の連関であり、ゲマインシャフト性が人間から疎外されて物象のものとなっている状態である。物象こそがゲマインシャフトをなしており、人間はそれに支配されることによって、間接的に共同存在でありうるにすぎない。

この、媒介されている状態を社会とするか、それとも媒介を抽象して単なる諸個人の連関を社会とするのか。ここでもマルクスは揺らいでいる。どちらをも、社会的であると一言うのである。

『資本論』においても、社会的であることの曖昧さは、克服されていない。それどころか、さらに混乱が深まっている。

まず、商品の価値は、ゲマインシャフト的であるとともにゲゼルシャフト的でもあるような実体の結晶であると言う(14)。これは、商品はゲゼルシャフト的すなわち孤立的・個別的なものだが、価値はその個別性を解消せずに孤立性を止揚したゲマインシャフト的なものであるということの、きわめてまずい規定である。

マルクスは、商品から始める。しかも、階級関係ではない私的交換の商品から始める。しかし、商品の私的交換は、階級関係がなければ存在しないことは、マルクスが以前に確認したことである。

マルクスは、階級関係ではない商品から始め、階級関係ではない貨幣を説明し、階級関係ではない剰余価値の創出を論証する。階級関係は、剰余価値の創出の謎が暴露された後で、初めて明らかにされる。

このような、マルクスの叙述の展開の方法は、いわゆる上向法や弁証法によってなされたものではない。マルクスの社会観によってなされたものである。

マルクスにとっては、社会が基準であり目標である。マルクスは社会を、独立した個人的人間たちの関係としてのゲゼルシャフトを、求めるのである。それは、没個性的な、非自立的な、類的一体性としてのゲマインシャフトから発展したゲゼルシャフトの進歩性に対する、絶大なる讃美である。

マルクスは、ゲゼルシャフトの成長期の思想家であった。ゲゼルシャフトが全世界に拡がりを見せようとする時代の、思想家だった。

たしかにマルクスは、ゲゼルシャフトの進歩性と共に、その矛盾をも看取した。しかし、ゲゼルシャフトを絶対的なものとすることによってマルクスは、その矛盾そのものがゲゼルシャフトであるとはせずに、矛盾を止揚したものもまたゲゼルシャフトであるとしたのである。


マルクス剰余価値論批判序説 その8

2021年02月27日 | 哲学思想

マルクス剰余価値論批判序説 その8

6、階級の抽象

 

マルクスは社会を、個人と個人との連関の様態として捉えた。それは、没個別性としてのゲマインシャフトからの、個人的人間の発生であった。さらにマルクスは、社会における個人が、階級に規定されて、階級的諸個人としてのみ存在していることを把握した(『哲学の貧困』)。

ところが『経済学批判要綱』以降のマルクスは、諸個人の階級的規定を、曖昧にするのである。それは、マルクスの階級規定そのものが、生産(労働)的規定であると共に政治的規定でもあるというところにある。マルクスは階級を、実在的土台において規定すると同時に、上部構造における行動(政治闘争)においても規定しようとするのである。だが、上部構造(社会の上部)においては、資本家も労働者も共に人間であり、対等で同等な人格である。

階級的観点が揺らぐと、社会は、階級に規定された諸個人の連関ではなく、単なる諸個人の連関とみなされる。

 


マルクス剰余価値論批判序説 その7

2021年02月26日 | 哲学思想

マルクス剰余価値論批判序説 その7

 

5、ゲマインヴェーゼン

 

貨幣の本質的な研究によってマルクスは、ゲマインシャフトを解体して成立したはすのゲゼルシャフトが、ゲマインシャフトを物の姿で持っており、この物(貨幣)こそが主体となってゲゼルシャフトが成り立っていることを、捉えたのである。(13)

人間は、本源的に共同存在である。だが、それだけでは何も言っていないに等しい。人問は一人では、あるいは全く孤立した状態では、生きることすらできない。たとえ、動物的に生存することができたとしても、人間になることはできない。奴隷制も對建制も、資本制においても人間(諸個人)は、それぞれの共同制度によって生活している。このことは、何ら学問的な真理などではない。

資本家は、労働者との共同制度がなければ、生活できない。労働者もまた、同様である。しかしこのように、資本制生産様式における労働者と資本家との関係を、一種の共同制度として見るためには、資本家と労働者とを対等で同等な諸個人(諸人格)として、抽象しなければならない。 この抽象は、階級の抽象である。

 


マルクス剰余価値論批判序説 その6

2021年02月25日 | 哲学思想

マルクス剰余価値論批判序説 その6

 

4、ゲマインシャフト

一体性としてのゲマインシャフトを解体して、個別性としてのゲゼルシャフトが発生した。しかし、ゲゼルシャフトの個別性は、単なる個別性ではなく、個別化された個々体は直接に連関しておらず、物象を媒介として連関している。ゲゼルシャフトもゲマインシャフトと同様に、人間の連関の一形式ではあるが、全く異なった形式である。ところがマルクスは、時折この区別を抽象してしまうのである。

ゲゼルシャフトは、原生的なゲマインシャフトの解体であるとされる。(12)

以前にマルクスは、ゲマインシャフトはもの言わぬ一般性であるとして、それを否定した。しかし、ここでは、マルクスが否定したゲマインシャフトは原生的なゲマインシャフトであり、ゲマインシャフトそのものを否定するのではないという姿勢が見られる。

フォイエルバッハのゲマインシャフトをゲゼルシャフトの概念によって否定した(『経・哲草稿』)マルクスは、人間の本質が共同存在・共同制度(Gemeinwesen) であることをも否定して、人間の本質はゲゼルシャフト的な個々人の連関・交通にあると見ていた(「フォイエルバッハ・テーゼ」)。

ところが『経済学批判要綱』では、ゲマインシャフトやゲマインヴェーゼンが、ゲゼルシャフトと並んで復活している。

マルクスのこのような変化は、貨幣の研究においてなされたものである。

 


マルクス剰余価値論批判序説 その5

2021年02月24日 | 哲学思想

マルクス剰余価値論批判序説 その5

3、社会的なこと

 

マルクスは、社会の内部で生産する諸個人から出発する。しかし、彼らの生産は、直接には社会的ではないと言う。したがって、マルクスが前提とするのは、社会的な諸個人の直接には社会的ではない生産である。これは、どういう意味だろうか。

マルクスは、「社会的であること」の反対を表現するために、「直接的に社会的であること」という言い方をする。つまり、社会的なこととは、個々人が非直接的に連関していることである。諸個人は、物象に媒介されて連関している。この、人間以外の物象に媒介された諸個人の連関が社会であり、社会的な形式なのである。そして、物象に媒介されないで、諸個人自身が媒介の役をなして個々人が連関していることを、直接的に社会的な形式であると、言うのである。

ところが、「社会的であること」が、孤立した、媒介された、非直接的なことであるという規定を、マルクスは厳密に守ってはいない。直接的に社会的なことをも、社会的なこととして書いている場合が多い。

たとえば、大工業では個々人の労働は、止揚された個別的労働、社会的労働として規定されていると言う。(10) しかし、止揚された個別的労働は、社会的労働ではなくて、直接に社会的な労働であると、言わなければならない。

また、ゲマインシャフト的な生産では、個々人の労働は初めから社会的労働(一般的労働)であるが、交換価値の基礎のうえでの労働は、貨幣を媒介として事後的に一般的労働になるのだと言う。(11)

ゲマインシャフト的な生産における労働が、初めから一般的(普遍的)な労働であると言うのはかまわないが、それを社会的労働であると言うのでは、ゲマインシャフトとゲゼルシャフトとの区別が、消滅してしまう。