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マルクス剰余価値論批判序説 その32

2021年03月23日 | 哲学思想

マルクス剰余価値論批判序説 その32

 

3、外部の隠蔽

 

この問題をマルクスは、生産部面が労働過程と価値形成過程との統一であり、労働過程は流通過程の外部にあるが、同じ労働過程は価値形成過程として流通過程と直接に結合していると見なしてしまうことで、解決(?)するのである。

労働過程は、価値形成過程としては流通過程と直結しておりその外部性は消滅される。しかし、労働過程を価値形成過程でもあるとするのは労働過程その ものの規定ではなく、労働力を商品(価値)であると規定した場合になされる 間接規定でしかない。したがって、価値増殖過程としての労働過程では、労働 時間の大きさきだけが、すなわち、抽象的人間的労働の大きさだけが問題とな る。これは、労働過程を流通過程の尺度によって把握しようとすることである。 そのためには、労働過程に必要なもの全てを商品(価値)にしなければならない。労働手段や労働対象は商品である。それでは、労働者はどうか。賃金労働者は奴隷ではないので、 労働者自体が商品なのではない。また、ブルジョア経済学や社会主義者が言うように、労働を商品と見なすと、その価値と賃金とは合致しない。それでは、資本は盗みであるということは言えても、剰余価値が資本の自己運動によって発生することは説明できない。

 マルクスが言うように労働過程は価値形成過程でもあり、その価値形成過程がある点を越えて行なわれると価値増殖過程に転化するのと言うためには、 賃 金は労働の何らかの価値を示していなければならない。労働を、価値(価値量)として表示しなければならない。しかし、労働は価値ではない。対象化された労働の特殊な存在様態だけが、価値と見なされうる。

 


マルクス剰余価値論批判序説 その31

2021年03月22日 | 哲学思想

マルクス剰余価値論批判序説 その31

 

2、剰余価値

 

マルクスの剰余価値論を、見てみよう。剰余価値とは、最初の価値を越えて自らが生み出した超過分(増加分)であり、価値自己増殖である。それは、自分以外のところにある価値を、何らかの方法(略奪や詐欺など)で持ってきて自分に付け加える、ということではない。まさに、価値産出であり、錬金術である。(5)

マルクスはまず、流通過程における剰余価値の発生について考察する。そして、流通過程における商品交換は、剰余価値を発生させないとする。(6)

さらに、商品交換が不等価交換である場合にも、不等価において誰もが平等であるから、結局は価値を殖やさないことになる。(7)したがって、商品交換は価値を創造しない。(8)

このように、資本は流通からは発生しないが、しかしまた、流通からしか発生させることができない。(9)

そして、先に見たように、マルクスは、問題の設定に厳格な条件を付ける。

 

貨幣の資本への転化は、商品交換に内在する諸法則にもとづいて展開されるべきであり、したがって等価どうしの交換が当然出発点とみなされる。いまのところまだ資本家の幼虫でしかないわれわれの貨幣所持者は、商品をその価値どおりに買い、価値どおりに売り、しかも過程の終わりには、自分が投げ入れたよりも多くの価値を引き出さなければならない。彼の蝶への成長は、流通部面で行なわれなければならないし、また流通部面で行われてはならない。これが問題の条件である。ここがロドスだ、さあ跳んでみろ!(10)

 

この条件をクリアするために、マルクスが選んだ道は、流通部面の外部を流通部面に取り込むことだった。

商業資本(G―W―‘G)や高利資本(G―‘G) は、流通部面の中だけで運動する。しかし、産業資本はG―W…‘W―‘Gであり、商品生産という流通部面の外部をその中に取り込んでいる。(11)

剰余価値の発生の論証を行なおうとするマルクスは、流通部面の外部にある、資本家にとって私的な、商品生産の行なわれる場所に入り込む。

資本家は、商品市場で労働過程に必要なすべてのものを買

い、労働者に労働させ、その結果である生産物を取得する。(12)

資本家の生産物は商品である。資本家は、自分が使用する

ために労働者に生産させたのではなく、その生産物を商品として売るために、生産させたのである。

そして、資本家はそれを商品交換の法則にもとづいて、その価値どおりに売る。その結果、始めに投下した貨幣よりも多くの貨幣を手に入れた。

 

芸当はついに成功した。貨幣は資本に転化された。

問題の条件はすべて解決されており、しかも商品交換の法則は少しも侵害されてはいない。等価が等価と交換された。資本家は、買い手として、どの商品にも、……価値どおりに支払った。次に彼は商品の買い手がだれでもすることをした。彼はこれらの商品の使用価値を消費した。……この全経過、彼の貨幣の資本への転化は、流通部面のなかで行なわれ、そしてまた、そこでは行なわれない。流通の媒介によって、というのは、商品市場で労働力を買うことを条件とするからである。流通では行なわれない、というのは、流通は生産部面で行なわれる価値増殖過程をただ準備するだけたからである。(13)

 

したがって、問題は、流通部面と生産部面との関連にある。流通部面は、その外部にある生産部面と、どのような関係にあるのかが問われなければならない。

 


マルクス剰余価値論批判序説 その30

2021年03月21日 | 哲学思想

マルクス剰余価値論批判序説 その30

第三章、剰余価値と社会の外部

 

1、労働価値説

 

労働は、価値ではない。労働が価値(商品)であると見なされるのは、それが貨幣で買われるからである。

労働価値説は、労働者が賃金と引換に労働を提供する事態の、理論的表現である。したがって、労働価値説は、現に賃金労働が行われている現象の説明としては、無条件に正しいものである。

労働価値説に対する批判は、労働が賃金で買われることの批判にならない限り、労働価値説を越えることはできない。賃金労働の存在を認めておいて、労働に価値はないとは言えないのである。

マルクスの労働価値説が批判されるのは、それが剰余価値論と直接に結びついているからである。労働が価値であることは認めても、労働が新たな価値を生み出すことは認められないのである。(1)

マルクスは、労働が価値であること、労働(力)が商品であることが、いかに「狂った」意識であるのかを、その商品論においては論述している(2)。だが、剰余価値(資本)論においては労働価値論を無批判的に適用している。

マルクスの商品論は、商品批判すなわち価値批判であるが、剰余価値論は価値批判としては展開されず、不払労働の収得に対する批判にしかなっていない。

労働を、支払労働と不払労働とに区分して、不払労働の部分が剰余価値を形成するのだという理論は、商品としてその価値が支払われるのは労働ではなく労働力であるという観点の切り替えによって、整合性のあるものとして受け取られる。しかし、この場合の整合性は、商品交換社会における整合性であって、商品交換そのものに対する批判を棚上げにした場合の整合性にすぎない。

マルクスは、剰余価値論において、資本制社会すなわち商品交換社会に対する批判を、意図的に除外して論述している。その訳については、次のように述べられている。

 

商品生産またはそれに属する過程は、商品生産自身の経済的諸法則にしたがって判断されるべきだとすれば、われわれはそれぞれの交換行為を、それ自体として、その前後に行なわれる交換行為とのいっさいの関連の外で、考察しなければならないのである。また、売買はただ個々の個人のあいだだけに行なわれるのだから、全体としての各社会階級のあいだの連関を売買のうちに求めることは許されないのである。(3)

だが、何故許されないのだろうか。

われわれが資本制生産をその更新の不断の流れの中で考察し、個別資本家と個別労働者とのかわりに、全体に、つまり資本家階級とそれに相対する労働者階級とに、着目するならば、事柄はまったく違って見える。だが、そうすればわれわれは、商品生産にとってはまったく外的なものである尺度をあてがうことになるであろう。(4)

 

マルクスは、資本制生産における所有法則の取得法則への転化について論じているので、その姿勢は明確である。商品生産自身の経済的法則によって、所有が取得に転化することを証明すべきだとしているのである。商品交換以外の尺度によって、商品交換から価値増殖が行なわれるという説明は、避けるべきだと言うのである。

マルクスは、当然のことを言っている。しかし、マルクスの剰余価値論やそれにもとづく資本制的取得法則なるものは、マルクス自身が商品交換の諸法則だけにもとづいて論証しているつもりであっても、すでに商品交換の外部が、社会の外部が取り込まれているのである。ただマルクスが、それに気づいていないだけのことなのである。

マルクスは、自分か社会の外部を取り込んでいることを、まったく意識していない。しかし、実際の分析では社会の外部を、まさにその外部性を取り入れている。

 

 


マルクス剰余価値論批判序説 その29

2021年03月20日 | 哲学思想

マルクス剰余価値論批判序説 その29

 

(11)『資本論を物象化論を視軸にして読む』(廣松編、岩波書店)で高橋洋児氏は、「重要なことは、賃労働に対して労賃が支払われるというあり方は労働力商品を前提とする特殊歴史的なものであるにもかかわらず、それが《労働―労賃〉という一般的な図式のなかで無区別的に捉えられてしまうという点である。(五九五頁)」と述べている。高橋氏は、マルクスの労働力商品説の立場にあるものの、《労働ー労賃〉図式の根幹に迫ろうとしている。「それにしても、労働は必ず労賃を見返りにもたらすべきものという観念が確固たるものとして成立するためには、当事者たちの側にそれなりのいわば根拠認識がなければなるまい。〈労働ー報酬〉関係がくり返し行なわれるというだけでは、なお積極的な根拠づけに欠けると言わざるを得ない。(五九六頁)」という問題意識は、《労働ー労賃〉図式を自明のものとはせずに、なぜ労働が貨幣と引換に処分されるのかという課題に触れている。だが、氏はここまで来ていながら「労働にではなく労働力に支払われるのだという、マルクスの詭弁に同調するのである。対象が労働であるか労働力であるかという区別にかかわりなく、労働は支払われるものだという意識は、かくも強固なものなのである。

(12)上野千鶴子『家父長制と資本制』(岩波書店)によれば、次の通り。「『市場』を『市民社会』と同一視すれば、『市場』の外に『社会』はないことになるが、実は『市場』の外には市場原理の及ばない『家族』という領域があって、そこへ労働力を供給していた。」(六頁)。「家事が『収入を伴わない仕事』であるとは、それが不当に搾取された『不払い労働』であることを意味する。この『不払い労働』から利益を得ているのは、市場と、したがって市場の中の男性である。」(三七頁)。「フェミニストの要求は、第一に再生産費用の不均等な分配を是正すること、第二に、世代間支配を終了させることにある。」(一〇六頁)。上野氏のこの優れた著作の欠点は、マルクスの労働価値論および剰余価値論を、あまりにも無批判に前提している点である。「資本は労働を買うと

見せかけながら、その実労働力を買っている(二九六頁)」という、マルクスが批判抜きで賃金の現実形式について述べているものをそのままに受け取って、労働(労働力)が支払われるものであるという資本制的意識から、「不払い労働」を批判する。社会の外部としての家事労働を捉えながら、「社会」や「外部」や「労働」については常識的見解に囚われている。社会を公的、家族を私的領域としてしまうことは、マルクスにとっては思いもよらぬことだが、このような常識的理解に読者を導いたのは、マルクスの叙述によるのである。賃金を労働力商品への支払いと見なすことは、私的交換の社会を平等人格相互の公的領域として受け取らせ、その外部が私的領域であるかのように思わせ、労働には

対価が当然であるという資本家的常識を植えつけるのである。しかし、上野氏が、家事労働が「社会の外部」で行われていることを見抜いたのならば、労働そのものが社会の外部で行われているものであることに、気づくべきである。上野氏にそれをさせなかったのは、氏の再生産概念である。上野氏は、再生産のカテゴリーに一般的生産(生産物の生産)を含めない(七四頁)。しかし、生産とは再生産である(MEW二三、五九一頁)。物の生産も人間の生産も同じことなのである。人間の生産を別格に扱うのは、どのような理由によるのだろうか。(もちろん、労働をその結果(対象化)としての生産物から見るのは、間違っている)。

 


マルクス剰余価値論批判序説 その28

2021年03月19日 | 哲学思想

マルクス剰余価値論批判序説 その28

 

(1)たとえば、岩佐茂氏は次のように言う。「社会的諸関係のこれらの関係のうち、マルクスは、物質的生産にかかわる生産諸関係(物質的関係)を社会の土台として、それ以外の他の諸関係を何らかのかたちで土台によって規定される社会の上部構造として特徴づけた。」(『人間の生と唯物史観』青木書店、一一六頁)。このように岩佐氏は、社会を土台と上部構造に分けている。しかし、岩佐氏自身がこの文の直前で述べているように、「社会的諸関係は物質的関係(生産関係)、社会的(social) 関係、政治的・法的関係、精神的関係に区分することができる」のならば、ゲゼルシャフト的関係とゾツィアールな関係とを、共にゲゼルシャフトの関係としてしまうことは、社会という日本語の没概念性に、あまりにも無自覚ではないのだろうか。

(2)『資本論草稿集』第二巻、四九六頁。

(3)MEW 二五、七九九ー八〇〇頁。

(4)MEW二三、二三一頁。

(5)「労働過程はまず第一にどんな特定の社会的形式にもかかわりなく考察されなければならない」(MEW二三、一九二頁)。「これまでにわれわれがその抽象的な諸契機について述べてきたような労働過程は、使用価値〔この使用価値が誰のための使用価値なーーのかをマルクスは言わない 注7参照〕をつくるための合目的的活動であり、人間的欲求を満足させるための自然的なものの取得であり、人問と自然とのあいだの素材転換の一般的な条件であり、人間的生活の永久的な自然条件であり、したがって、この生活のどの形式にもかかわりなく、むしろ人間的生活のあらゆる社会形式に等しく共通なものである。」(同、一九八頁)。

(6)「労働力の消費は、他のどの商品の消費とも同じに、市場すなわち流通部面の外部でおこなわれる。」(MEW 二三、一八九頁)。「流通の前提とは、労働による諸商品の生産であるとともに、諸交換価値としての商品の生産でもある。」(『資本論草稿集』第一巻、二九七頁)。

(7)厳密に言えば、このように言うのは間違っている。商品が消費過程に入った際に使用価値になるというのは、商品が商品ではなくなるということではない。商品は、流通過程では交換価値という規定性で現われるが、消費過程では使用価値という商品のもう一方の規定性が現われるのである。使用価値も交換価値と同様に、商品の規定の一つなのである。生産物の使用価値という規定は、生産物が商品となることによって与えられたものである。商品生産以前の労働生産物は、交換価値ではないのはもちろんだが、使用価値(他人のための使用価値)でもないのである。労働生産物が使用価値と見なされるのは、それが商品であるからである。したがって、使用価値という言葉は、それが他人のための使用価値として対象的・媒介的に存在するものなのか、それとも自分の直接的使用を指しているのかで、区別されなければならないのである。これを無視すると、労慟が元来使用価値の生産であるという誤った見解を引き出すことにつながる。労働とは、生命発現(生命維持)の人間的行為であって、対象化活動というような使用価値生産(商品生産)活動ではないのである。このような、使用価値生産労働への批判から「非対象化的労慟」を考え出した今村仁司氏(『労働のオントロギー』勁草書房、二二〇頁)は、それを抽象的人問労働あるいは社会的労働になぞらえている。今村氏の見解は魅力的だが、氏の社会論がマルクス同様混乱しており、その労働論の理解を妨げている。抽象的人間労働とは直接的に社会的な労働(ゲマインシャフト的労働――ゲマインヴェーゼンとしての労働)であって、社会的労働とは具体的有用労働(商品生産労働)のことである。社会的あるいは連合的と言うだけでは、それが直接的か媒介的なのか、はっきりしない。このような混乱は、マルクスに責任がある。

(8)「生産過程一般、これはどんな社会状態にも属するもので、したがって歴史的性格をもたず、人間的といってもよいものである。」(『資本論草稿集』第一巻、三九〇頁)。

(9)「この部面での取得の法則として現われるのは、労働による取得、等価交換だから・交換はただ同じ価値を別の具体物で返すだけだ。要するに、 ここではいっさいが『美しい』。だが、すぐにどぎもを抜かれるような結末になるだろう。しかも等価の法したがって。」(マルクスからエンゲルスへの手紙、一八五八年四月二日付、『全集』第二九巻、二四九頁)。

10)MEW二三,五六二頁。