大震災があった"あの日の翌日”2011年3月12日の早朝、愛知県・安城市の外はまだ暗く辺りはとても静だ。ホテルで出発の身支度をしているとテレビからはまた緊急地震速報のアラーム音、「栃木県震度5」の予報に胸が騒ぐが地震発生を知らせる速報は出ず幸いにも誤報だったようで胸を撫で下ろす。ニュースでは昨日の本震、栃木県南部は震度6と報じている。子供の頃住んでいた町は東海大地震で大きな被害が予想された地域のため、小・中学校では頻繁に避難訓練をしていた。地震体験車に乗せらた事もある、震度5の体験だったが身体を隠したテーブルの足を抑えられない位相当大きな揺れだったと覚えている。それを上回る 震度6に襲われた我が家、妻はどんなに怖かったろうと想像してしまう。
ホテルをチェックアウトし駅前のコンビニで軽めの朝食と携帯食の大豆バー、大きめのペットボトルの水、そして昨日妻から頼まれた単三・単四の乾電池を全部購入(買い占めですね)確か、勘定は5千円超えていたと思う、ほとんどが電池代。
JR東海道線・安城駅から乗車した2両編成の始発電車はほぼ満員、この人達も帰宅困難者かな?と勝手に想像。豊橋駅の新幹線乗り場に着くと「始発より平常運転」と案内があった、すぐに東京行「ひかり」の指定席を確保、これで少しの間休める。定刻通り「ひかり」が到着し指定された窓側の座席に座る、てっきり満席と思ったが空席が多くガラガラだ。窓の外は快晴、700系「ひかり」は最高速度で東へ向けて快走しているようだ、いつもは速いと感じる270km/hの最高速度が今日はとても遅く感じる。心の中で「もっと速く前へ!」と叫んでいる、と同時に「余震があると止まってしまうかも、大きな余震が来ないうちに東京へ到着して欲しい」と願いつつ、コンビニで調達した朝食を取りながら窓の外を眺める。
昨日名古屋駅で別れたFさんからメール着信
「名古屋営業所の社用車で東京へ向かったが高速を静岡付近で下された、何か情報を!」。彼は今日12日大阪へ転勤するための引越しを予定している、何としても帰りたいのだろう、名古屋で酒を飲まず、社用車で帰京を試みるとは。。。
「新幹線は通常通り運転、東京へ向かっている」と返信。
幸い大きな余震はなく定刻通り東京駅に到着、構内は意外と人が少ない。精算所で切符の清算をして案内板を見る、東京駅発着のJR線は運行されていない。フリーで自動改札を通り抜け外へ、タクシー乗り場は長い行列、駅構内と外を行ったり来たりして情報を集める。
「まだ、東京なんだよな~」どうしよう。。。
携帯電話で調べると地下鉄銀座線運行再開の情報、銀座線ならJR宇都宮線の起点・上野駅へ行ける、と、東京駅から歩いて10分程の京橋駅へ向かう。ルート途中の東京営業所が入居するビルの前を通るが入口はシャッターが降りていた、全員退社した様だ。地下鉄はラッシュ並みの超満員、無理やり乗り込み上野駅で下車、JR線の改札へ向かう。上野駅は東京駅とは大きく違い連絡通路の階段や改札へつながる通路は人の行列で大混雑。「この人達は列車の運行再開まで待つつもりなのか?」一旦駅舎を出て、アメ横の入口付近で一休み。しばらくすると高架の上を電車が通過、京浜東北線が運行再開した様だ、でも上野駅はいつ構内に入れるか判らないくらいの大混雑&長蛇の列、待っている時間がもったいない。どうする・・
「そうだ!隣の駅まで歩けばいいんだ、自分の足が有るじゃないか!!」、
線路沿いに歩けば電車の運行再開も判るし、空いている駅から電車にも乗れる。そう思うと上野公園の脇から線路沿いの道を隣の「鶯谷」駅へ向かい歩き出す。案の定、鶯谷駅の改札はガラ空きですんなりと改札を通り京浜東北線のホームで電車を待つ。電車は十数分に1本到着するが超満員で乗込む余裕がなく、仕方なく数本の電車を見送る。しばらくして「埼京線運転再開」の情報、赤羽駅まで行けば埼京線に乗換えれば大宮駅まで確実に行ける。赤羽駅の一つ手前「東十条」駅が終点の電車が到着、比較的空いているので迷わず乗車「東十条から赤羽の一駅はまた歩けばイイんだ」、歩くことへの抵抗は無くなっていた。東十条で列車を降り、再び線路沿いを歩く。
「歩こう~歩こう~私は~元気~♬」
何故か「隣のトトロ」の挿入歌が口から出る、そう私は元気なのだ、と実感。
赤羽駅から埼京線に乗換える、平行する東北新幹線の高架に立ち往生した列車を横目に順調に走る。車内で東武鉄道(私鉄)運行再開、栃木方面は東武鉄道利用を薦めるアナウンスが流れる中、大宮駅に到着した。宇都宮線は運休が続いているので、東武・野田線に乗換え途中の春日部駅で東武・日光線に乗り継ぎ、栃木駅まで行く作戦となった。朝調達した大豆バーと水で軽い昼食を乗換えの春日部駅ホームで食べ、到着した栃木方面への電車に乗る。目的地の栃木駅に到着したのは日が傾きつつある夕方、ここから自宅まではタクシーを利用するしかない。10分程度でやって来たタクシー、「遠くには行けません」と運転手、「○○市の××まで」と行き先を告げ、「OK」をもらい乗車、これで家へたどり着く・・・。運転手に遠くに行けない理由を尋ねると「LPガス車はガソリン車に比べて燃費が悪く、特に昨日の様な日は遠方のガス・スタンドが開いていない可能性があり、ガス欠になると戻れなくなる。」との由。「東京・大宮に行って欲しいというお客は全て断った」とのことであった。20分程走ると見慣れた景色、新幹線の高架には1本の列車が立ち往生「ここにも」とつぶやく。タクシーを降りて自宅に到着、時計は16時を回っていた。これでようやく2日間に渡る「帰宅困難者」の旅が終わった。幸い妻にケガはなく自宅も軽微な被害で済んだ。
あの大震災から3年の月日が流れました。あらためて、震災・大津波で命を無くされた方のご冥福をお祈りし、小生が体験した生涯忘れることが無いだろう、2011年3月11日~12日2日間の記録を締めくくりたいと思います。
長文・乱文にも関わらず、お付合い頂きましてありがとうございました。
緊急地震速報のアラーム音 あれ不気味な音ですね。
2日間のはやてこまちさんの一番長い日興味深く読ませていただきました。
こういう時の行動はマニュアルにはない、まさにサバイバル
自分の頭で考えるしかありませんね。
自分ならおそらくまだまだ帰宅困難者だったでしょう。
歌も子供が小さい時によく口ずさんでいたのを思い出しました。
「友だちたくさん うれしいな♪」
実は3.11には私も東京におりました。
東北新幹線が止まって東京に2日間滞在しましたが、取りあえず自宅へ飛行機で帰宅する為羽田に移動しました。
航空券売り場で三沢までの便をお願いしたら、即答で満席ですと断られましたが一応機械で確認するようお願いしたら、何と偶然にキャンセルが入り切符を確保、三沢まで女房に迎えに来て貰い、どうにか帰宅出来た次第です。
しかし仙台の事務所に幹部が誰もいない状態なので二日後仙台に向けて自家用車で移動しどうにか仙台までたどり着いたのですが
ようやく着いた仙台が悲惨なことになっておりました。話が長くなりますので、その内私もブログで発表したいと思います。
なかなかの筆力ですね~
私も3.11を思い出しました。
勤務先の4階の居室からトイレに向かっう途中で
物凄い大揺れ。
立っておれずに床にへたり込んだ。
とにかく少しおさまってから用だけ足して
階段を外まで降りて空地へ逃げる、、、
しかし、まだまだ揺れる。
いつまでも、いつまでも揺れる。。。
財布もクルマのキーも外套もない、寒い。。。
そのうち、ビルの7階から出火! 消防車が、、、
そうですね。settaiさんも書かれているように、
記録を残しておきましょうか。
その1からしっかり読ませていただきました。
あの日から3年経ちましたがまだまだです。
あらためて今までにない経験をされた方の意見を聞かなければと思います。
貴重な体験談ありがとうございました。
感心します。現役ばりばりですね。
自分にも、一度かけた電話は、メモしなくても忘れないような時
がありました。むかしむかし。
こういうことを記録に残しておくことも大切なことのように思います。
自分自身のヒストリーですよね。
我が家では、福島の郡山に三男夫婦が住んでいました。
三男は3.11の時には本社の用務で東京にいたようです。
福島の原発があのような状態になったことをしり、
製薬メーカーの抗がん剤などの担当MRの三男は、
生まれて数ヶ月の長女への放射能被爆などを考え、
翌12日には、郡山を離れることを決断し、嫁さんに
連絡を取ろうとしましたが、連絡手段がなく、
インターネットを我が家(長男)と介してやる取り
する方法を思いつき、長男を介して、連絡を取り、
郡山から三男の待つ東京を目指して、行けるところまで
タクシーで着の身着のまま出発し、大宮辺りで
落ち合うことができて、無事、嫁さんのお姉さんが
住む宝塚にたどり着いたと聞いています。
あの時には、それぞれの人に大変なドラマがありましたね。
東北とは比べ物になりませんが、関東でもその片鱗を経験しました。
本地震のあと、余震のたびにも社員全員が外に出ました。
夜には長女が途中までしか帰ってこられず、電車を下ろされて駅まで徒歩。
近くの公民館に寄せていたところまで、渋滞の中迎えに行ったことが思い出されます。
その1から3まで、はやてこまちさんに何が起こったか、新幹線と在来線、タクシー、そして徒歩をつなぎ繋いでの御帰宅、その克明な記録をまさに手に汗握る思いで拝読しました。
あの日あの時、私は遅い昼食後の運動として軽いジョギングをしておりました。
雪が降り積もっていた道で足を取られるのに気をつけていたためか、揺れには全く気付きませんでしたが、職場に戻ってみると大騒ぎになっておりました。私どものところでもかなりの揺れ。早々テレビをつけてみると大津波が海岸線から内陸に遡っている様子がヘリコプターから次々と。避難途中で動けなくなっている車、降りて走って非難しようとする人たち、声も出せずに唯唯速く速く と思うばかりでした。
かなり時間が立った後東京の次女とは連絡が取れ、無事であるとのこと、アパートの大家さんであるおばあさんを気遣いながら自分自身も恐怖で泣いていたようです。夜九時くらいにやっと長女の携帯に繋がり現状確認した所、品川ビル群の中にある職場から徒歩で約二時間かけて新宿のさらに先にあるアパートに向かって歩き出したところ。
思わず、何考えてんだ、仲間も連れて職場に戻って待機しなさい、
と半分命令口調で伝えました。余震や火災にでも途中巻き込まれたら大変。
もうあれから三年ですね。貴重なレポートありがとうございました。私自身の記憶もよみがえりました。
(いくつかの用事のため現在欧州移動中です。WiFiつながるたびに読ませていただいておりましたが、今やっとちょっと時間が取れ、慣れない携帯でレスポンスしております。書き出したら結局長くなってしまいました。すみません。)
(はやこまさん、ごめんなさい)
みなさん、国際的に活躍されているんですね。
7月のオフ会でご報告を楽しみにしています。
気をつけておかえりください。