丙丁童子のブログ 

◎まだ、だれもいっていない、そんなこと、あんなこと。(童子)

法眼と玄則 (丙丁童子とは)

2017-04-30 08:37:03 | 法眼と玄則
法眼と玄則


物の真相は、我執の塵を払拭し去って、心裏まことに虚しき時にのみ、把握される。魂の飛躍は、さかしき智慧のはからいを捨てて、一心帰命の棄私に徹した時にのみ実現される。
かるが故に、自力聖道に生きた永平道元にすら、ただわが身をも心をも放ち忘れ、仏家に投げ入れてこそ、はじめて生命を離るるの分あり、との慈誨があるのである。



「監寺かんすを呼べ」
 法眼ほうげんは、いつにない厳しい声で、侍僧に命じた。――法眼というのは、支那唐代に於ける禅門の偉材で、五百人の善知識と伝えられた達人であった。
 法眼の会中に、玄則が監寺の役目をつとめることになってから、すでに三年になる。然るに玄則は、まだ一度も、法眼に向って悟りの道を問うたことがない。
それどころか、どうかすると、師を凌ぐような振舞さえちらちら見える。そこで法眼も、とうとう黙っては置けなくなったのである。
 やがて、玄則がはいって来た。彼は、法眼の眼に、ふだんとはちがった輝きがあるのに気がついたので、いくぶん警戒はしながらも、いつものとおり、落ちつきはらって座についた。
「そなたが拙僧のところに来てから、もう何年になるな。」
 法眼の言葉は、案外もの柔らかであった。
「まる三年でござります。」
「ほう、もう三年になるかな。ところで、そなたが拙僧に仏法を問うたことは、まだ一度もないように思うが、如何じゃな。」
「仰せの通りでござります。」
 玄則は、一見恐縮したように、それでいて、どこかに昂然たる心持をひらめかしながら答えた。
「お前は後生こうせいじゃ。それに一度も拙僧にものを訊ねないというのには、何か子細があろう。差支えなくば、聞かしてはくれまいかの。」
 法眼の声は、相変らず静かであった。
「仔細といっては別にござりませぬ。ただ、おたずね致すような疑問も、別にござりませぬので……」
「ほほう。すりゃ、もうすっかり仏法を了達したと申すのか。」
「さようでござります。」

 玄則は、法眼の柔らかな言葉のなかに、何か気味のわるいものを感じながらも、持ち前のきかぬ気で、きっぱりといい放った。
「後学のためじゃ。どうして了達したか、聞きたいものじゃの。」
「実は、こちらに参ります前に、青峰禅師のもとで修行をいたして居りまして、……」
「うむ。そのことは、よく拙僧も存じている。青峰は達人じゃ。さぞかし、よい語を授けたであろうな。」
「ある時、いかなるか、これ学人の自己、とおたずねいたしましたところ、……」
 と、玄則は得意そうに語り出した。――学人の自己というのは、求道者の心といったような意味である。
「うむ、して、青峰は何と答えたな。」
「丙丁童子、来って火を求む、……と、かようでござりました。」
「ほほう、さすがは青峰じゃ。して、そなたは、それをどう了達したのじゃな。
どうやら、そなたの力量では、荷が勝ちすぎる語のように、拙僧には思えるが……。」
 玄則は、来たな、と思った。ここでうろたえてはならぬと思った。で、顔に微笑を浮べながら、わざと間を置いて、
「丙丁はひのえ、ひのと、いずれも火でござります。火の童子が火を求めるとは、これ取りも直さず、仏が仏を求め、自己が自己を求めること、と、
 かように了達いたしましてござります。」
「それで、そなたは入頭の処を得た、と申すのじゃな。」
「さようでござります。それ以来、心に微塵ほどのくもりも湧きませぬ。」

「たわけ者!」
 法眼の声は奔雷のように、玄則の耳に落ちて来た。
 玄則は、思わず身ぶるいした。しかし、彼の持ち前のきかぬ気が、すぐに盛りかえして来た。そして、きっとなって、法眼をまともに見かえした。
「そのざまは何じゃ。もし仏法がそのようなものであったら、今日まで、よもや伝わっては居らぬぞ。」
 法眼の声は、前ほど高くはなかったが、玄則の胸には、大きな石がのしかかって来るように感じられた。
「そのようななま悟りで、よくも拙僧のもとで、三年もの間、ぼやぼやと暮らして居られたものじゃ。鼻もちならぬぞ。出て行け。
 出て行けというたら、出て行かぬか!」
 法眼の声は、坂をころがる石のように、一語は一語より烈しくなって、玄則に立ち直る隙を与えなかった。



 玄則が、強いて肩をそびやかしながら、山門をあとにしたのは、それから間もなくであった。法眼は、
「あいつ、出たきりもどらぬとすると、惜しいものじゃが、それも仕方がない。」
 と、心の中で嘆息した。
 一方、玄則は、あらあらしく土を踏みながら、山を下っていた。そして、彼の胸に、法眼に対する憤激の情が燃えていた間は、彼の足どりにも、十分の元気があった。
 しかし、一丁下り、二丁下りしている間に、そのはかない炎は、襟元から吹き入る夕風のために、だんだんと吸い取られて行くのだった。
 そして最後に彼の心に残ったものは、涯しもない空虚の感じと、それからしみ出る奥の知れない淋しさであった。
 ――すでに三年も前に、自分の心は見事に開けていたはずではなかったか。そして、たった今法眼に対して、心に微塵のくもりもないと豪語した自分ではなかったか。
 それだのに、この淋しさは何事だ。まだ心が曇りだらけだった頃ですら、これほど深い、大きな淋しさに出逢ったためしはなかったのに。――
 彼は、自分の血と肉とが、一足ごとに崩れ落ちるようにすら感じた。そして、とうとう堪えきれなくなって、路ばたの草むらの中にころがっていた石に、腰を下した。
 石にはひえびえとした露がおりていた。
 間近かの樹で、鴉が啼いた。それを最後にして、光も音もない。まっ暗な山が、彼を包んでしまった。彼は黙然として考えにふけった。
 ――法眼といえば、何といっても五百人の善知識だ。定めし何かの長所があろう。然るに、ただの一度も彼に仏法を問わなかったのは、
 考えて見ると自分の一生のしくじりだ。求道の心が鈍っているといわれても、返す言葉はない。そうだ、機会を失ってはならぬ。――



 それから数時間の後、彼は再び山門をくぐっていた。
 旅装束のまま、法眼の前に首垂れていた彼の姿には、いたましいほどの敬虔さがにじみ出ていた。
「いかなるか、これ学人の自己。」
 彼は、恭々しさの限りをつくして、かつて青峰禅師に対して発したのと同じ問を、あらためて法眼になげかけた。
 燭の火が、かすかにゆれるばかりで、しばらく答がなかった。玄則は、おずおずと眼をあげて、法眼を仰ぎ見た。
 法眼の眼には、湖の底から静かに浮き上って来るような微笑が湛えられていた。そして、世にもやさしい、柔和な声が、その唇から、水のように流れ出た。
「丙丁童子、来って火を求む。」
 その声は、玄則の耳から胸へ、胸から腹へ、そして一本一本の髪の毛の先にまで、しみ透って行った。同時に、玄則の全身に、明るさと温かさが、
 白昼に雨戸を開けた時のように流れこんで来た。
 玄則は、踊り上りたいほどの心を、じっと押さえて、法眼の前にひれ伏した。
「玄則、見事じゃ。」
 法眼はそういって、さわやかに座を立った。玄則も、そのあとについて、しずしずと廊下に出た。
 ひそまり返った庭の隅からは、すみ切った虫の音が流れて、満天の星を瓔珞のようにふるわしていた。



 同じ問いに対する同じ答えが、玄則の心に、どうしてかほどまでに違った響きを伝えたか。それを解きうるものは、玄則自身の心でなければならない。
 しかし、ここに凡愚の私見をつけ加えることを許されるならば、わたくしはこういいたい。
 ――頭と胸とは違う。知識上の了達は、必ずしも心意上の了達ではない。そして、まことの生命の力は、心意上の了達によってのみ得られる。――と。
 然らば、玄則が、知識上の了達から、心意上の了達へ飛躍し得た秘密は何であろうか。それは簡単である。
 曰く、謙虚。曰く、滅我。曰く、一心帰依。
 言葉は簡単であるが、その実現は容易なことではない。さすがに玄則は、道を求めて倦まざる勇猛の士であった。彼は、人間にとって最大の敵たる我執と傲慢とを、
 ものの見事に打ちやぶって、百尺竿頭、さらに一歩を進めることが
出来たのである。


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