今年の夏は短いようだ。
午後からお墓参りに行ってきた。父の前で手を合わせて帰ってきた。父の前でぶつぶつ何やら呟いていた。僕もそれだけ年を取ったということだ。
僕の人生は順調にいったところであと四分の一を残すのみ。
僕という生はほんとにそこで終わりなのか? この身体の細胞のどこに僕という生は潜んでいるというのだ。
僕の心臓が止まろうと、脳が死のうと、僕の身体の細胞はあっちこっちで生き続けている。
正確には少しの時間は生きている。それは脳が指令を喪失し、心臓が動かないから秩序を失うからに過ぎない。統括指令がないから、身体は解体していくだけなのだ。体毛などは脳が指令を中断したあとも成長を続けたりするそうだ。
僕という存在の命令形態を若い肉体にすんなり移植できれば、僕は再び生き続けていくことになる。そういう移植が可能な時代がくれば永遠に生き続ける者も出てくる。
ただし、瞬時の破壊にはその生も耐えられない。自分の記憶形態も瞬時に破壊されてしまうから。
こんなことを考えるのも父の魂がそばにやってきているからかもしれない。