一人暮らしになって10年あまりが過ぎた。家の中に話す相手もいないのは平穏だが、同時に退屈で感情の変化もきたさない。今となっては家族たちとの罵り合いの喧嘩が懐かしい。
何の波風も立たず、静かに平穏に過ぎていく日々に時々恨めしさを覚える自分がいる。
この日、朝方は雨がぱらついていたが、時間を追うにつれ天候は晴れ上がった。
仕事を終えて帰宅したら、玄関横のメタル柵の上で彼はじっと息を潜めていた。
車を入れて隣家とを仕切るメタル柵のすぐそばを歩いてきたから、玄関の方に曲がる直前、彼と自分との距離はせいぜい20センチほどだったことになる。
彼の名はシマヘビ(たぶん)。山かがしかシマヘビかの識別は自分にはできない。立ち並ぶ住宅の周辺に生息する蛇は他に青大将とマムシがいる。この二匹の区分はまあまあできる。
山かがしとシマヘビの区分は山かがしは赤い線が混じっている。写真で見ると分かりやすいが、実際に見て判断できる自信はない。
ただ、大きな特徴の違いがある。山かがしは木や柵を這い登ったりすることはできないと聞いた。
しかしシマヘビは木や柵を這い登るのはお手のもののようだし、毒は持たないものの蛇の中で攻撃性が強いとされる。破傷風菌を媒介する話もある。
もしも至近距離にあった時、自分の腕が彼の身体にぶつかっていたならどうなっていただろうか? 攻撃されたと思った彼の牙が僕の首を襲いかかっていたとしても何の不思議もなかった。
つまり、危険がそばにあると知らずに通り過ぎるのは幸せなものなのだ。
連絡は携帯やネットを通じてやれる今、郵便ポストに舞い込むのは広告郵便やチラシ、請求書の類ばかりである。だが、ポストの中を覗きこむ習慣はちっとも抜けない
チラシを持ち、ドアのロックを外してドアノブを握った時、本能的に後ろを振り返ったりする。一人暮らしが長く続くと玄関先で誰かに後ろに立たれるのはすごくいやなのだ。
この日もそんな気分で背後やメタル柵の方を見たのだった。
その時、視野に少しの違和感を覚えた。メタル柵から何か垂れ下がっていると見えたのは彼の尻尾だった。
彼を見て一瞬緊張したが、背筋に電流が走るほどのものではなかった。そのあたりはすでに日陰となっていたが、彼は自分ではなく西日のさす方向に鎌首を向けていた。もしも彼が僕を面と向かって睨み付けていたなら、彼の命は本日を持って終えていたかもしれない。まあ、彼の牙にやられ自分が何かの菌にやられ絶命していた可能性と同じほどのものだろうが…。
僕はしばらく彼を観察していたが、じっとしたままの姿に見飽きて家に入った。
トイレをすませて衣服を着替え、パソコンの電源を入れた時に彼を思い出した。その間に7~8分の時が流れていた。
自分が思い出したのは2~3年前に見た蛇のことである。
仕事から帰って玄関先に立った時、足元を黒っぽいものがすっと横切った。蛇と気づいた時は尻尾が草むらに消えていくところだった。
怖さを覚えなかったのは蛇がまだそんなに大きくなかったのと胴体がボールペン程度に細かったせいだった。
家の周辺の草むらには雨蛙が出没してるが、彼らの捕獲をうまくやってないんじゃないかと思ったくらいだ。
あの日も部屋に入った後、さっき見たのは去年見たあの蛇じゃないか、と考えたのを思い出した。
物干し台の洗濯物を取り込もうと家の横手に入って行ったら、人工芝の隙間から茎を伸ばしてるドクダミの間をくねって逃げ出した生き物がいる。生まれてそんなに経ってないと思える小さな蛇だった。
4年前から都合3度の蛇を見たことになるが、ひょっとして彼はあの…の思いが自分にデジカメを握らせた。
外に出たら彼はメタル柵の上でほとんど動いていなかった。
デジカメを構え、動画を取り出したが彼はぜんぜん動かない。どうかしたのか、何かあったのか、と彼を観察しているうち、尻尾の近くが傷ついているのに気づいた。
人のイジメに遭ったのか? それともよほど高い場所から落ちたのか?
身体を傷めているなら早く人目につかないところへ行けばいいのに…。玄関横に立てかけてある板切れを握った。
板切れでメタル柵を打ち鳴らして彼に移動を強要した。メタル柵から下におりて我が家の床下に逃げ込めばいい。そこに入ったら身は安全なはずだ。
メタル柵を打ち鳴らしながら彼を動画に収めていった。
「ほら、そこで下におりれば空気穴から床下に入っていけるぞ」
と念じながら。
しかし彼はメタル柵の上にこだわりながら自分のそばから逃げていき、とうとう隣の家へ逃げ込んでしまった。
我が家の周囲の方が草も豊かで好物の獲物もいるから住み心地もいいはずなのに…。