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「今はシーズンが終わった幸せを満喫したい」。
イタリア・トリノで開催された2010ISU世界フィギュアスケート選手権大会で銀メダルを獲得し、31日に帰国したキム・ヨナ(20、高麗大)は、久しぶりに帰国したためか、家族や友達のことを真っ先に語った。
この日、仁川(インチョン)空港に到着した直後に行った記者会見で、キム・ヨナは「バンクーバー冬季オリンピック(五輪)が終わってからしばらくソウルにいたのを除くと、昨年8月に韓国に来たのが最後だった」とし、このように述べた。
キム・ヨナは「トロントでの生活は退屈だった。韓国で家族や友人に会いたいと思っていたが、ついにその時が来た」と喜びを表した。帰国の所感を尋ねると、「オリンピックに対するストレスを感じずに生活できるというのがとてもいい」と答えた。
今シーズン最後の大会が唯一、銀メダルに終わったが、キム・ヨナは「満足している」と語った。「オリンピック後に世界選手権大会に出場してみると本当に大変だった。銀メダルだが、オリンピック後の大変なヤマを乗り越えた結果なので、とてもうれしいし、満足している」と話した。
しかし今後の進路については悩んでいるようだ。「望んだことをすべて成し遂げたので、次の目標をどうするかが心配。もう一度考えてみる」と述べた。
キム・ヨナは「これまでフィギュアのために中学校から学校生活がほとんどできなかった。しかし何かを得るためには別のものをあきらめなければならないと思うと後悔はない」と語った。
(ニュース記事より)
キムヨナ選手はこのところ充足感に溢れた発言を続けている。時の人なので場所を移動するたび、会見の場が用意される。いつも似たような質問を受け、答えを求められる。言いまわしは多少違っても同じような返事を繰り返すことになる。それでも同じような質問は飛んでくる。ここまでの選手になってしまうと大変だなとつくづく思う。
ところで僕らが目にし耳にする彼女の発言だが、訳してこうした文面になる場合、あれは彼女の意をしっかり汲み、受けとめて届けてくれているのだろうか。
韓国語(ハングルマル)ができる人は本文にあたれるから問題ないとして、それのできない僕は時々違和感を覚えたりしてきた。それでも、彼女はこう言いたいのだろうなとこっちで適当に理解したりしてきたのである。
たとえば上記では「トロントでの生活は退屈だった・・・」云々のくだりがある。気になるのは(退屈)という言葉である。僕はこれを(単調)と受け止めて理解したが、(退屈)ではかの地においてヒマを持て余していたように感じてしまう。オリンピックをめざし、大会に出場し続けてきた彼女は毎日を練習に明け暮れ、家族や友人と会って団欒をすごしたり、お喋りしたりショッピングするヒマなど持てなかったはずである(おびただしいCM出演のオファーもオリンピック後にまわし、帰国後はそれにもおおわらわだとの記事も目にした)。
それを彼女は(退屈)という言葉で処理したというのか。この退屈に該当する言葉を僕は知りたくてならない。そしてそれが日本語となった時、僕らが「退屈しのぎ」や「退屈でヒマを持て余す」等で使う意味に通じる言葉なのかどうかも知りたい。
もしも彼女が額面どおりの発言を行ったとすれば、国内向けのリップサービスと思うほかない。そのような言葉を口にしなければならない背景があるとでもいうのだろうか。
たとえば、「望んだことをすべて成し遂げたので、次の目標をどうするかが心配。・・・」も妙な表現である。次の目標をどうするか迷っている、や、どうするか不安である、なら素直にわかるが、心配? 周囲の心配を気遣ってこのような発言をしたとでも? 誰かをじゃなく自分を心配する、とはもう一人の自分がいるみたいな変な言い回しである。
ハングルマルはできないが、キムヨナ選手は思ったことを率直にいう人だとの印象がある。
(心配)も勇み足の訳なのではないか。
言葉というのはほんと難しい。日本語でやりとりしあっても誤解や曲解が生じる。たったひとことが飛んだ騒ぎに至ったりする。
文章や言葉を読む際には、早呑み込みじゃなくじっくり理解することに努める。これこそ一番大事なものなのだ。
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