URAKARA7話(1)
このところ、スンヨンの様子が変だ。
「心をこめて~いま 贈りたい~「ありがとう」♪」
今日もメンバーとともに歌の収録に臨んでいるのだが、気持ちの沈んでいるスンヨンは音楽に乗ることができない。とうとう歌詞を見つめたまま歌うのをやめてしまった。
「何やねん、その乗ってない感じは!」
そんなスンヨンを関西のぞみはとがめた。
「何か、うまく・・・歌えなくて・・・」
「そんなんじゃ・・・せっかくのええ歌も、ぜーんぜん、伝わらへんわ」
「はい」
「あんた、メインボーカルやろ。メインが足引っ張ってどうすんねん。何でやねん」
「はい」
「ええか。このニューシングルの発売を心待ちにしてるもんが、ぎょうさん、おんね」
ギュリが立ち上がって訊ねた。
「あの~いつ、出るんですか?」
関西のぞみは話を寸断してきたギュリを怪訝そうに見ながら答えた。
「今年や」
ハラが立ち上がり、ギュリのそばに立った。
「何月?」
「3月や」
ニコルが続いた。
「何日?」
「23日や」
ジヨンも口をあけて続こうとしたが、訊ねようがなかった。ニコルらの顔を見た。ニコルらは目を返して何を聞くのかなという表情をした。
しばし考えたジヨンは、ジヨンは手指の爪を立て、つっかかるしぐさを取った。
「ん・・・ヤオンッ!」
「・・・ヤオンッ! 何でやねん。・・・ン? 何でこけへんね」
その時、部屋のドアがあいた。
「おお、どうも、どうも」
スタジオに姿を見せたのは山本編成局長だった。
「頑張ってると聞いたからね。え、陣中見舞い。紅芋スイーツ。女子は紅芋好きでしょう?」
「は~い」
「さらにおみやげです。ぼく、KARA」
やや、間があって、メンバーは顔を見合わせ「およよ」のしぐさを取ったが、関西のぞみが制した。
「今のは、やらんでええ」
メンバーらは和気藹々とスタジオを後にしだした。ジヨンとニコルは練習から解放された喜びを爆発させながら先に飛び出してきた。
「タッタタタターッ、タンーッ」
後ろを歩いていたギュリがスンヨンのいないのに気付いて訊ねた。
「あれッ? スンヨンは?」
「残って練習するって」
ハラが答えた。前を歩きながらニコルは感心して見せた。
「ええっ! 頑張るわね」
リーダーのギュリは立ち止まり、振り返った。
「無理しなきゃいいけど・・・」
スンヨンは歌詞を見つめながらうなっていた。苦しんでいた。
「ああっ・・・ちゃんと気持ちをこめなきゃいけないのに・・・」
しかし、時間ばかりがいたずらに過ぎていく。
明かりを小さくし必死で集中しようとするスンヨンの耳に、そのうち妙な音が飛び込んできだした。
「何の音?」
その音は近づいてくるようだ。足音? 誰かが近づいてくる・・・。スンヨンは慄いた。
「何なのっ!」
足音はさらに近づく。
「誰なの?」
足音は部屋の前で止まった。ドアノブがガチャガチャ鳴り出した。
スンヨンは耳を押さえた。風が起こり、部屋の物がガタピシ音を立てて動き回る。スンヨンは悲鳴をあげ、逃げ回った。ついには、忌まわしいものから目を逃れるようにソファにしがみつき、顔を押し付けた。
やがて、騒がしい音が鳴り止む。スンヨンはため息とともに後ろを振り返った。
するとそこに何かがヌーッと立っている。
悲鳴とともに逃げ出そうとすると、男の声がした。
「話を聞いてくださらぬか!」
その声にスンヨンは立ち止まった。
二人は離れた場所に座り、言葉を交わした。
「幽霊なんですか?」
「そうでござる」
「何てことなの・・・!」
「申し遅れました。拙者の名は」
「列車?」
「拙者でござる。拙者の名は永井与太郎。そなたは?」
「スンヨン」
「スン、ヨン・・・。じつは拙者、幽霊でござる」
スンヨンは顔を突き出すように言った。
「聞きました」
「今から200年ほど前、(1811年頃)このあたりに住んでおり、この場所で死にもうした。家は代々続く町道場で、近所には別に道場を開く相武家というのがおりました。そことは昔から犬猿の仲で、そんなおり因縁に決着をつけるため、試合を執り行うこととなりました。だが、現れたのは相武家の長女、お千代という女、男の試合に女など言語道断! しかし・・・」
(女に負けた! 女に負けた!)などと近所から嘲りを受けるようになる。
「生き恥をさらすくらいならと、短い人生を終え申した。待ってくだされ!」
男の幽霊は呼び止めた。
彼の話を聞かず、スンヨンは部屋のドアを押し外へ逃げ出そうとしていたのだ。
「最後まで話を聞いてくださらぬか」
「私には、あんまり関係ないから」
「それからこの場所で成仏することも出来ず・・・待ってくだされ」
出て行こうとしてまた止められる。
「さすがに早いでござる。そして、非常に申しわけないのですが、今、あなたにとりついております」
「ええー――――っ!!!」
(200年前の江戸の様子)
☆(1811年→ 外交史料館では、朝鮮国王純祖(李コウ、在位1800-1834)から第11代将軍徳川家斉に宛てた国書と別幅(将軍への贈答品目録)を所蔵しています。この国書は、1811年(文化8年)、朝鮮通信使より対馬にて奉呈されたもので、家斉の将軍職就任(1787年)を祝う内容です。
朝鮮通信使とは、朝鮮国王から日本の室町および江戸幕府の将軍のもとに派遣された外交使節です。江戸時代には、豊臣秀吉の朝鮮出兵により悪化した両国の関係を修復するために徳川家康が訪日を要請し、1607年(慶長3年)から1811年まで、12回にわたって派遣されました。将軍への慶賀や弔問、そのほか両国間の緊急な懸案事項を解決することが目的でした。
総勢300名から500名にのぼる通信使一行は、釜山を出発後、まず対馬に渡り、壱岐を経て下関に上陸、瀬戸内海沿岸の各所を経由して大坂に再上陸し、その後は陸路で江戸を目指すという旅程で日本を訪れ、日本での滞在費、交通費等はすべて日本側が負担しました。 <江戸時代に朝鮮通信使が持参した徳川将軍宛の国書から>)
☆佐久間 象山(さくま しょうざん(ぞうざん)が生まれる(1811年2月)
日本の武士(松代藩士)、兵学者・思想家。松代三山の一人。通称は修理、諱は国忠(くにただ)、のちに啓(ひらき)、字は子迪(してき)、後に子明(しめい)と称した。贈正四位。象山神社の祭神。
天保4年(1833年)に江戸に出て、当時の儒学の第一人者・佐藤一斎に朱子学を学び、山田方谷と共に「二傑」と称されるに至る。ただ、当時の象山は、西洋に対する認識は芽生えつつあったものの、基本的には「伝統的な知識人」であった。天保10年(1839年)には江戸で私塾・「象山書院」を開いているが、ここで象山が教えていたのは儒学だった。
☆1811年、3月5日(旧2月11日):江戸・市谷谷町から出火、四谷・麻布・芝まで延焼。焼失家屋2万戸、死者200人。
(ウィキペディアなどより)
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