4月16日の山開きの頃には咲いているはず。
春分。女神山(2017.3.20)
「その1 堀切登山口より」の続きです。
今回のGPSログ。
女神山山頂 11:12
小社女神神社?
山頂の岩は小手姫神社の御神体。
川俣町の山~女神山・名前の由来
『日本山名辞典』に女神山は、4つ出てくる。
そのうち3つまでが秋田県にあって、あとの1つがこの女神山である。
どの山も標高が1,000メートルに満たないのはその名にふさわしい。
この優しい名の山には、小手(おて)郷(川俣町と月舘町)に織物を伝えたと言われる小手姫伝説が伝わっている。
小手姫は崇峻天皇の妃で、蘇我馬子の乱の後、東北に落ち延びた息子の後を追ってこの地まで来たという。
しかし、息子とは会うことができないまま土地の人々に養蚕と絹織物の技術を教え、
ついにその一生をこの地で過ごしたといわれる。
遺体は女神山に葬ったといわれている。
今でも女神山には山桑が点在し、字「本内」の上あたりに『堂平』には姫が住んだといわれるその跡が残っている。
小手姫は小手郷に絹織物を伝えた先人であり、その供養の山が女神山である。
秋山字壱貫森の佐藤長明(故人)宅に伝わる「小手姫記事」には、
「千二百五十年三月十五日にあれば即ち清明の日也 又小手姫の開きたる高山なるが為に一名女神山と称す。」とあり、
小手姫あっての女神山であり、女神山あっての小手姫伝説ではないと言われている。
川俣町公式ホームページ「川俣町の山~女神山」より。
その周りをヒオドシチョウ(緋縅蝶)が舞って・・・止まった!
逃げないからとあまり近付き過ぎるとこうして翅を開かない (^^ゞ
付かず離れずのヒオドシチョウを追いかけまわした後、漸く・・・
一等三角点・点名「月舘」(標高599.3m)にタッチ 11:19
山頂からの眺めは抜群。
が、だいぶ霞んでいた景色がさらに・・・
(GIMP2で画像加工)
下山後、千貫森にも登るつもりでいたけれどこれではねぇ~。
反射を取り除き色彩を鮮やかに表現。
C-PLフィルターを最大限に効かせて撮ってもこの通り。
安達太良山。
吾妻山。
手前は天井山。
今年も参加できないけれど4月9日が山開き。
・・・春だからしょうがないか。
女神山山頂を後に 11:38
やや急な坂道を下って・・・
今回も一部周回。
椚平分岐(上)より右に折れ 11:49
見返り峠から眺める・・・
木幡山と福沢羽山。
福沢羽山の山開きは5月7日。
三度目の正直・・・どうしようかな?
椚平分岐 11:52
コブシ坂を下っていけば・・・
出始めたカタクリの葉。
左手に去年の正月にはなかった真新しい御堂が建てられていたけれど?
椚平登山口 12:24
つぼみ堅い。
ソメイヨシノが並ぶ林道七ツ森線をノンビリ景色を眺めながら。
桑畑。
小手姫伝説と「絹の里」川俣
川俣には、「小手姫伝説」とうい昔話が広く伝えられています。
今からおよそ1,300年前、崇峻天皇の時代のこと。
天皇の妃・小手姫が政争に巻き込まれ、
時の権力者・蘇我馬子によって、愛しいわが子を連れ去られていまいました。
涙にくれた小手姫。意を決し、わが子を捜し求めて全国行脚の旅に出ました。
東奔西走の末、ついに川俣へ辿り着きました。
小手姫は、川俣の風土が養蚕に適することを見抜き、
養蚕と糸紡ぎ、機織りの技術を人々に教えたと伝えられています。
これが、「絹の里」川俣のルーツですが、真偽のほどはともかく、
平安時代には「安達絹」の名称で川俣の絹織物が、書物に登場しており、
古くからの隆盛のほどがしのばれます。
川俣町公式ホームページ「絹製品」より
堀切登山口(上)まで上がって一部周回完了 12:37
右に折れて「休んで見っせ」を通過。
以前は藪の中?
駐車スペースのすぐ上に石祠を見つけ・・・
堀切登山口(下)に下山完了 12:48
春霞で展望も期待できないし、この行程のどこかで出会った(前記事の)あの花の名前も調べたいし・・・
やっぱり千貫森にも寄らずに真っ直ぐ帰宅。
これでおしまいです。
春っていう感じになってきましたね!
自分はまだまだ花の名前など分からないことが多いので、ひーたさんのブログで勉強させていただこうと思っています(笑)
さて、今回はもしかしたらすれ違ったなぁ!と思ったのでコメントさせていただきました!
ザックもなしでスタスタと登ってる人いませんでした?(笑)
もし、ゆっくりとした山歩きを邪魔していたらすみません。。。
昨日、福島市の桜も開花していよいよ春本番。
あちらこちらへと忙しくなりそうです。
月舘分岐とカタクリ平の間ですれ違ったような記憶があって・・・
そうそう「何かないかな?」とのんびり被写体探しをしているうちに往復・・・早いなぁ~と(^_^)
ペースは人それぞれで、全然邪魔だなんて思っていません。