『(天皇という)最高権威が、民衆を「おおみたから」とする。
こうなると、政治権力者は、国家の最高権威の「おおみらから」のために働く存在となります。
民衆が、国家における最高のたからであり、政治権力は、その「おおみたから」の幸せのために働く存在…
これが日本における「皇臣民」の概念です』
↑は一昨日の「ねずさんの独り言」の記事「和気清麻呂」にあった言葉。
今から思うと、明治時代は、政治家が天皇の下「皇臣民」の為に働いた、国民にとって一番幸せな時代だったのかも知れません。
今以て、わが国で最高権威を持つ天皇が、伊勢神宮を始めとする神社の神官の長として、民の行く末を見守っておられるということは、有り難いことですが、つまり最高の権能を持つ存在とは、日本においては人ではなく、神様だということです。
本来“政(まつりごと)”は、かくあるべし!の見本のような国がかつての日本でしたが…、神不在の国となって70年、自信も誇りも失って、ありもしない「従軍慰安婦問題」一つ思う様に片付けられません。
ねずさんの記事、いつもながら勉強になります。
http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-2872.html
和気清麻呂
昨日の記事で、東京の皇居前にある日本の歴史上の二大英雄の銅像から、武官の楠正成をご紹介しました。
今日は、文官の英雄和気清麻呂(わけのきよまろ)です。
奈良時代末期から平安時代初期に活躍した貴族です。
勤王をつらぬき、時の権力者から天皇を守った英雄です。
和気清麻呂(わけのきよまろ)は、道鏡が天皇の地位を狙ったときに、これに抗し、天朝を守り、そのため別部穢麻呂(わけべのきたなまろ)というひどい名前に改名させられた挙句、大隅国(現在の鹿児島県)に流罪となり、後に赦されてからは、広大な土木工事を行って民の暮らしの安寧を測り、またいまの京都である平安京への遷都を進言し、その造営を図った人物です。
そして幕末、ペリーが来航する2年前の嘉永4年には、明治天皇の父にあたる孝明天皇から、神階正一位と「護王大明神」の神号を贈られています。
我が国の文官として、史上最高の栄誉を持つ人です。
ところが、あれだけ文官政治が大事、武官による政治はよくないなどと主張する戦後左翼や、教育界は、いまではまったく和気清麻呂を学校で教えないし、いわれてみれば、テレビや児童向け図書などにおいても、和気清麻呂を描いた本は、ほとんどまったくといって良いほど、出ていません。
そんなわけで今日は、その和気清麻呂の生涯をたどりながら、日本の目指した国のカタチについて、考えてみたいと思います。
ここは現在の岡山県和気町で、選挙区でいいますと岡山県第三区です。
ここを選挙区にしているのが平沼赳夫先生です。
ちなみに、平沼赳夫先生の父親が第35代内閣総理大臣の平沼騏一郎、曽祖父が平沼淑郎で、第三代の早稲田大学総長です。
さて、和気清麻呂の家、つまり和気家は、第11代垂仁天皇(すいにんてんのう)の第5皇子である、鐸石別命(ぬてしわけのみこと)を祖とする家系です。
垂仁天皇は、河内の高石池や茅渟(ちぬ)池など、諸国に多くの池溝を開いて農業を振興された天皇です。
また、古代において世界であたりまえとされていた殉死を禁じたのも垂仁天皇です。
ちなみに田道間守(たじまもり)に命じて、常世国に妙薬の非時香菓(ときじくのかぐのこのみ)を求めに行かせたのも、垂仁天皇です。
田道間守は、10年かかって(おそらく)インドから菓を持ち帰るのですが、そのときには垂仁天皇はすでに崩御されていて、そのことを嘆き悲しんだ田道間守は、御陵で断食をして亡くなったといわれています。つまりそれほどまでに垂仁天皇は民衆から慕われた天皇であったということです。
そしてこの田道間守が日本の和菓子の祖とされています。
垂仁天皇の第五皇子である鐸石別命の曽孫が弟彦王(おとひこおう)で、王は神功皇后の新羅遠征にも出征しています。
ところが遠征の翌年に、忍熊王(おしくまのおうじ)が反逆し、神功皇后が弟彦王にその反乱の鎮圧を命じています。
弟彦王は、播磨(兵庫県)と吉備(岡山県)の境に関を設けて忍熊王の襲撃を防いで、見事反乱を鎮圧しました。
この勲功によって弟彦王は、備前・美作に封じられ、代々この地で郡司として栄えます。
そしてその子孫が和気清麻呂になるわけです。
和気清麻呂は、天平5年(733)に、同地で生まれました。
彼には三歳年上の姉、和気広虫(わけのひろむし)がいます。
姉の広虫は、成人すると奈良の都にのぼって朝廷の采女(うねめ)となりました。
弟の清麻呂も、姉を追いかけるように都にのぼり、武官の舎人(とねり)となりました。
この時代、地方豪族の子弟は、男は舎人、女は采女として宮中に出仕することが名誉とされていたのです。
二人の姉弟は、都で一緒に下宿暮らしをしました。
互いにたすけあう、仲の良い姉弟であったようです。
姉の広虫は、15歳(いまの16歳)で、中宮に勤める葛木戸主(かつらぎのへぬし)と結婚しました。
夫の葛木戸主は、たいへんに心優しい人柄で、当時、戦乱や飢饉によって親を亡くした子供がたくさんいたことを悲しみ、子供達を養育して、成人すると彼らに自分の姓である葛木の姓を名乗らせています。
広虫は夫をよくたすけ、明るく子供達の面倒をみる妻であったと伝えられているのですが、実は、この「よその子を預かって養育するということが、現代に続く日本の里親制度の始まりとされています。
西暦でいえば740年頃のことです。
日本の里親という制度は、たいへんに古くて長い歴史を持っているわけです。
ちなみにここで「自分の姓を名乗らせる」という事柄が出てきますが、「姓」というのは、オンナ編に生まれると書く字の通り、ひとりの女性から生まれた集団、つまり血族を意味する語です。
里親というのは、血族ではない他人の子に、自分の姓を名乗らせるわけですから、特別な行為となったわけです。
さて、そんな心優しい夫の葛木戸主が、ある日、早逝してしまいます。
悲しみから広虫は、出家して尼になり、法名を「法均」と名乗りました。
ただの尼僧として尼寺に入ったのですが、出家前に多くの身寄りのない子どもたちを助けていた功績から、尼寺では「進守大夫尼位」という高い位を授かっています。
この二年後、天平宝字8年(764)に、前の太政大臣であった藤原仲麻呂が、朝廷に反乱をおこしました。
これが「恵美押勝の乱」です。
この乱では、実は藤原仲麻呂の側に理があります。
というのは、この事件をものすごく簡単にまとめると、日本国内の大手宗教団体の教祖が政権を握り、国家を私物化しようとしたことに対して・・・つまり新興宗教団体が国家の転覆を図ろうとしたことに対して・・・前の総理が私兵を率いてこれを倒そうとして、逆にやっつけられてしまった、という事件です。
乱を起こした藤原仲麻呂は首を刎ねられ、さらに、その乱に名を連ねた貴族たち375人が逮捕投獄されました。
逮捕された人たちを全員死罪にすべきという意見が、道鏡の側から強く出されました。
けれどこの道鏡側の主張に対して、なんと尼となっていた広虫が、称徳天皇に助命減刑を願い出ます。
そして死罪はなしとされています。
この乱によって、また、たくさんの子供たちが親を亡くしてしまいます。
ここでもまた、広虫はその孤児たち83人を養育し、夫の葛木の姓を与えています。
さて、その5年後・・・・。
神護景雲3年(769)に、道鏡事件がおこります。
ついに仏教界の大御所である道鏡が、天皇の位を簒奪しようと行動を起こしたのです。
ちなみに道鏡という人は、もともと河内国弓削郷(大阪府八尾市)出身の僧侶です。
それが、史上6人目の女性天皇である第46代孝謙上皇の看病に成功したことで寵愛され、太政大臣禅師、ついで法王の位を授けられていました。
道鏡が61歳で、女性である孝謙天皇(当時43歳)に上手に取り入ったことから、道鏡は巨根であったに違いないなどという俗説があり、そこから道鏡巨根信仰などもあったりします。
日本人の発想というのは、実におおらなかものです。
その道鏡は、「恵美押勝の乱」によって、宿敵である藤原仲麻呂を追い込み、殺害しています。
もはや道鏡の権勢欲を邪魔する者はいないというところまで、朝廷内を掌握したのです。
そこで道鏡は、この年の5月に宇佐八幡から、
「道鏡に天皇の位を与えれば、天下は太平になるとの宇佐八幡の神託があった」と言い出して、天皇とは何の血筋上の脈絡もないのに、我が国の天皇の位を授かろうとしました。
この話を持ち出したのは、大宰主神である習宜阿曽麻呂で、内容は、臣下の身である道鏡が皇位を窺うという、前代未聞の珍事なのですが、ことが「宇佐八幡のご神託」となると、捨て置くことはできません。
このときの天皇は、孝謙天皇が重祚、つまり再び名前を変えて天皇の位について、代48代称徳天皇となっていたのですが、ことは重大です。
孝謙天皇は思い悩まれ、「夢枕に八幡大菩薩の使いが現われた」とし、使いが「真の神託」を伝えるので、法均(広虫)を遣わすように告げられたとして、信頼を寄せる法均尼(広虫)に、その使いを打診しました。
ところがこのとき法均は、重い病に臥せっていて、身体が長旅に耐えれません。
そこで弟の和気清麻呂に、その勅使の代行をさせるように願い出ました。
このとき和気清麻呂は37歳。
近衛将監で美濃大掾を勤めていました。
話を聞いた道鏡は、和気清麻呂を呼びました。そして、
「自分が天皇になれば、おまえに大臣の位を与えよう」と誘惑しました。
清麻呂は、姉の広虫と、国の行く末について話し合いました。
そして姉の助言を、心中深く受け止めました。
いよいよ神護景雲3年(769)6月末、宇佐八幡の神託の真偽をたしかめるため、和気清麻呂は勅使として都を旅立ちました。
出発に先立ち、称徳天皇は、ひそかに清麻呂に一首の歌を授けました。
西の海 たつ白波の 上にして
なにすごすらん かりのこの世を
「西の海」というのは、西方浄土を想起させますから、仏教界の海、つまり大御所である道鏡のことです。
その道鏡が立てた波風(白波)を「上にして」、つまり道鏡を天皇に就任させて、「かりのこの世を」現世を、「なにすごすらん」どうしてすごせましょうか、という歌です。
称徳天皇のご意思は、この歌に明確です。
どうして臣下であり万世一系の血筋ではない道鏡を天皇にしなければならないのか。
それをやってしまったら、支那の易姓革命と同じで、結局は日本は、政権をめぐって血で血を洗うウシハク国になってしまう。
そんなことは絶対に認められないということを、この歌は明確にメッセージしています。
ちなみに、ではなぜ称徳天皇は、そのように道鏡に対して、あるいは時の貴族たちに対してはっきりと言わないのか、という疑問を持つ人もいるかもしれません。
そこが、実は日本の統治のいちばんたいせつな「肝」の部分です。
というのは、天皇は政治権力を持たない、行使しないというのが、日本のカタチなのです。
天皇が直接政治に介入し、政治権力を揮うようになれば、それは支那朝鮮の王朝と同じで最高権力者が民衆を私的に支配する国になってしまいます。
民衆に権力を揮う最高権力者が、国家の最高の存在なら、民衆は権力者に支配される、つまり私有民となります。
私有民というのは、個人の所有物ということですが、民衆は、人ではなく、ただのモノとなります。
モノであれば、権力者が煮てくおうが焼いてくおうが、捨てようが収奪しようが、それは所有者の勝手です。
それこそ支那の歴代王朝と変わらない国になってしまいます。
これに対し日本の天皇は、どこまでも国家の最高権威であって、政治権力者ではありません。
天皇は、政治権力を揮う政治権力者ではなくて、その政治権力者よりも、もっと上位にある国家最高権威としての存在です。
その最高権威が、民衆を「おおみたから」とする。
こうなると、政治権力者は、国家の最高権威の「おおみらから」のために働く存在となります。
民衆が、国家における最高のたからであり、政治権力は、その「おおみたから」の幸せのために働く存在となるのです。
これが日本における「皇臣民」の概念です。
このことをわかりやすく説明するなら、たとえば喫茶店に入ってコーヒーを注文したとします。
コーヒーはお店のコーヒーカップの中に入っています。
出されたカップは、自分の手の中にあります。
つまり、割ろうが人にあげようが、投げつけようが、自在にできる状態にあります。
もしそのカップが、自分の私物のカップなら、それは自由にできます。
けれどお店のカップであるがゆえに、お客さんは勝手にそのコーヒーカップを処分することができません。
手の中にあるコーヒーカップが、お店のカップなのか、自分のカップなのかによって、カップの地位は、180度違うものになるのです。
これが日本における天皇統治の根幹です。
和気清麻呂が守ろうとした日本の姿です。
そしてその天皇がなぜ国家最高権威であるかといえば、神話の時代の天照大御神から続く神々の直系のご子孫であることに由来します。
血筋や血統は、誰にも否定できないし、取り換えもできませんから、天皇のお血筋は不可侵の権威となるわけです。
だから日本は支那の歴代王朝のように、姓が易(か)わり、皇としての天命が革(あらたま)るという易姓革命が成立しえないのです。
易姓革命が行われれば、権威権力の入れ替えの都度、国内はたいへんな内乱の嵐が吹き荒れることになります。
このことは歴史が証明しています。
また易姓革命によって生まれた新たな王朝による皇帝が、全ての土地や民衆を私的に支配する権力者であれば、民衆からの収奪や簒奪が、皇帝の名のもとに公然と行われることになります。
上がそうなら、下までもと、国の下々に至るまで、支配と簒奪が常識化する国家になります。
そして世の中、簒奪する者とされる者がいれば、圧倒的に数が多いのは簒奪される側です。
ということは、ほとんどの国民が常に簒奪され続ける、たいへんに騒然とした世が誕生してしまうのです。
これに対し日本は、最高権威としての天皇も、おおやけ(公)の自覚があるからこそ、政治権力に手を出さない、いわば無としての存在となります。
太政大臣などの政治権力者も、どこまでも天皇のおおみたから(民)を公的に預かる立場となりますから、従う民は、私有民ではなく、おおやけの民という自覚です。
21世紀の世界を見たとき、世界中に200くらい国がありますけれど、どれだけの国が、公(おおやけ)の自覚をもって国家運営されているかを考えれば、古代においてこうした国柄を築いた日本人の知恵というのは、ものすごいものであるといえると思います。
ところが道鏡は、孝謙天皇の寵を受けて政治権力を手にいれると、その上の国家最高権威までも手に入れようとしたわけです。
権威と権力、その両方を手に入れれば、支那の皇帝と同じです。
国を私的に支配できるようになります。
日本は、公私の区別のない、私的な支配の国に変わってしまいまうのです。
それがわかるから、称徳天皇は、道鏡の神託をなんとしてもしりぞけたい。
ところが称徳天皇が直接そのような指示を出したら、つまりそれは天皇の政治介入になります。
天皇が政治権力者を行使することになるのです。
つまり天皇が権力者の地位にまで成り下がることを意味します。
だからこそ称徳天皇は御心を悩ませ、和歌に託されています。
和歌は「察する」文化です。
上の歌は、いっけんすると、これから大分県にある、つまり奈良の都からみて、西の方角にあって、海を渡った先にある宇佐神宮に向かおうとする和気清麻呂の無事な航海を願っただけの歌に見えます。
そうとしか読み解けない人には、そういう歌にすぎないものです。
けれど、和歌は、相手の気持ちを「察する」文化です。
詠み手の心を、読み手が察する。
その察することのできる技量を孝謙天皇は和気清麻呂に期待したのです。
さて、宇佐八幡宮は大分県宇佐市に鎮座する武神です。
宇佐八幡社に到着した和気清麻呂は、身を清め心を鎮めて八幡大神に宝物を奉り宣命の文を読もうとしました。
すると禰宣の辛嶋勝与曽女(からしまのすぐりよそめ)は、宣命を訊くことを拒みました。
すでに「道鏡を皇位に即けよ」という神託が下されているというのです。
和気清麻呂は不審を抱きました。
そして改めて与曽女に、
「これ国家の大事なり。勅使の前に託宣ありとは信じ難し。願はくは神異を示したまへ」と、直接八幡大神の宣命を訊くことを願い出ます。
このあたり、すごい迫力を感じます。
おそらく和気清麻呂の到着前に、道鏡によって買収が行われていたのでしょう。
あるいは、なんらかの政治的圧力が宇佐八幡にかかっていたのかもしれません。
だから禰宜の与曽女は、和気清麻呂を拒んだのです。
ここが大きなポイントですが、すでにあらかじめ下準備が整っているシナリオを、あとから来て根こそぎひっくり返すというのは、並み大抵のことでできるものではありません。
このあたり、和気清麻呂の武人にも劣らない気迫を感じます。
伝承によれば、重ねて神託を申し出た和気清麻呂の前に、身の長三丈(9メートル)で、満月の如く輝く神々しい八幡大神が姿を表わし、厳かに真の神託が降ろされた、とあります。
そしてその神託は、
「わが国家は開闢より君臣定まれり。
臣をもって君となすこと、未だこれあらざるなり。
天つ日嗣は必ず皇緒を立てよ。
無道の人はよろしく早く掃い除くべし」
というものでした。
ちなみにここで描写されている「身の長三丈(9メートル)で、満月の如く輝く神々しい八幡大神」というのは、八幡大菩薩がそのお姿をあらわしたというよりも、このときの和気清麻呂の迫力が、まさに「身の長三丈」の神々しさを湛えたものであったのではないでしょうか。
さて、八幡大神の神託は、道鏡の皇位を認めないというものでした。
和気清麻呂は、いそぎ都へ帰ると、すぐに参内すると、群臣が見守るなか、神託のとおりに報告をし、
重ねて、
「道鏡を掃い除くべし」と奏上しました。
席には、道鏡も同席していました。
道鏡にしてみれば、事前に宇佐神宮にも、ちゃんと手を打っていたのです。
報告は、道鏡をして「皇位に就けよ」という、和気清麻呂を待つばかりだったのです。
何日も何年もかけて準備して、いよいよここまでたどり着いたのです。
ひとこと和気清麻呂の返答があれば、あとは自分がいつ天皇になるか。
その具体的な段取りを決めるだけです。
今日という日を、どれだけ心待ちにしたか。
まさに一日千秋の思いで、この日を待ったのです。
ところが、和気清麻呂の報告は、道鏡の期待とは真逆の報告でした。
このとき道鏡は、
「憤怒の形相で烈火のごとく怒った」と記録は伝えています。
たかが一介の、近衛将監、美濃大掾の若造の、そのたったひとことの報告で、道鏡のこれまでの人生の全てを賭けた最後の大博打が、おしゃかになったのです。
激怒した道鏡は、それでもこの時点では、我が国政治の最高権力者です。
道鏡は、和気清麻呂呼びつけると、
「お前に和気清麻呂などという名はもったいない。今日から名を別部穢麻呂(わけべのきたなまろ)と改名せよ」と命じます。
道鏡はさらにこれだけに飽きたらず、和気清麻呂を大隈国(鹿児島県牧園町)へ流刑し、姉の法均(広虫)も強制的に還俗させて、別部狭虫(わけべのさむし)と改名させて備後国(広島県三原市)に流罪しました。
実は、このとき和気清麻呂を大隅国に流刑にしたところにも道鏡の底知れぬ底意地の悪さがあります。
というのは大隅国というのは、神武天皇の御生誕の地です。
ですから神武天皇のご両親の御陵があります。この時代における「聖地」です。
「聖地」ですから、大隅には国司もいません。
太古の昔のまま、大切にされていた土地だったのです。
その大隅へ清麻呂を飛ばしたということは、「お前が神武天皇にはじまる万世一系の天皇をどこまでも奉じるというのなら、初代天皇の聖地で死ぬまで過ごしておれ!」というメッセージです。
いいかえれば、この時点で道鏡は、わが国における天皇の存在の理由とありがたさを、頭から否定し、自分こそが「天皇という名の政治的最高権力者」になろうとしていたということがわかります。
つまり天皇の権威としての存在を、道鏡はまるで否定しているのです。
まさにウシハク統治者に彼はなろうとしていたことが、この一点をもってしてもうかがい知ることができます。
さて、大隈国に流罪となった和気清麻呂は、旅の途中で道鏡の放った刺客に襲撃を受けています。
ところがこのとき、激しい雷雨となり、さらにどこからともなく勅使が現れて、わずかに死を免れたとあります。
まさに九死に一生を得る旅だったということと、神々のご加護が、むしろ和気清麻呂にあったということを、この逸話は示しています。
清麻呂は、罪人として輿(こし)に入れられて、何日もかけて護送されました。
大隅(鹿児島県)に到着する前に、通り道となる大分の宇佐八幡に、お礼のためにと和気清麻呂は参拝しようとしたのですが、すでに脚が萎えて歩くことができなかったといいます。
ところが、これまた不思議な事に、宇佐の近くまで来たときに山から突然三百頭の猪(いのしし)が現われると、清麻呂の乗った輿を前後から守ったそうです。
そして八幡宮まで十里の道を案内してくれまたといいます。
また、いよいよ参詣の当日、不思議なことに、和気清麻呂の萎えていたはずの足が、なんと元通りに治っていたと記録されています。
これらの故事から、猪は清麻呂の守り神とされ、和気清麻呂のゆかりの神社には、狛犬の代わりに「狛いのしし」が安置されています。
一方、備後国に流された姉の広虫はどうだったのでしょうか。
彼女は、備後で、きわめて貧しい暮らしをさせられていました。
そして弟のことや、都に残してきた養育している子供たちのことを思い、淋しくつらい日々を過ごしていました。
ところがそんなある日、都から干し柿が届きました。
広虫が育てていた子供たちが、義母の身の上を心配し、激励の手紙を添えて、食べ物を送ってくれたのです。
神護景雲4年(770)8月、称徳天皇が53歳で崩御されました。
そして第49代光仁天皇が即位されました。
そして即位した光仁天皇は、道鏡を罷免し、下野国(栃木県)の薬師寺別当に左遷しました。
古来、天皇は政治には関与しません。
そして天皇がいったん親任した政治権力者は、親任した天皇によって罷免されることはありません。
天皇が一度下した決断は、それなりの重さがあるからです。
けれど、天皇が崩御し、次の天皇が即位するとき、新たな天皇がその人物を親任するかどうかは、その天皇の裁量によります。
こうして光仁天皇は、道鏡をついに罷免します。
そして新たに起こった太政官は、大隅の備後に飛ばされていた和気清麻呂と、姉の広虫の流罪を解き、ふたりを都に帰朝させました。
そしてもとの姓名に戻させ、二人の名誉を回復したのです。
光仁天皇の後を継いだのが、第50代桓武天皇です。
桓武天皇は、道鏡のように、信仰を利用して己の私欲を満たそうとする者の政治への関与を防ぐために、あらためて、風水を立てて、都を葛野方面に移設することを計画しました。
それが平安京、つまり、いまの京都です。
そしてこの計画を提案したのが、和気清麻呂です。
和気清麻呂は、桓武天皇のもとで、平安京の造営大夫なり、新都造営に手腕を振るいました。
そしてついに延暦13年(794)に京の都が完成し、この年の10月、遷都が行われました。
都づくりに手腕を発揮した和気清麻呂は、続けて河内と摂津の国境に水利を通じたのをはじめ、京阪神一体の治山治水事業を推進し、民の生活の安定をはかりました。
そして平安遷都の5年後の799年、67歳で永眠しています。
『日本後記』は、和気清麻呂について、
「人と為り高直にして、
匪躬の節有り。
故郷を顧念して
窮民を憐れみ
忘るることあたわず」と絶賛しています。
また同書は、広虫についても、
「人となり貞順にして、
節操に欠くること無し
未だ嘗て法均の、
他の過ちを語るを聞かず」
と、これまた慈悲深く、人の悪口を決して言わない高潔な人柄をたたえています。
こうして、和気清麻呂の活躍によって皇統は護られました。
そして嘉永4年(1851)、孝明天皇は和気清麻呂の功績を讃えて神階正一位と「護王大明神」の神号を贈り、さらに明治天皇は、明治31年(1898)に、薨後1100年を記念して、贈正三位から位階を進めて、贈正一位を和気清麻呂に与えました。
また戦前は、十円紙幣に冒頭の肖像画が印刷され、さらに皇居近くの大手濠緑地に、和気清麻呂の銅像が建てられました。
わたしたちの国の根幹である民を守る、公と私のけじめつけるというシラス国を、個人の欲得によってウシハク国に作り変えようとする人は、さまざまな時代に登場します。
そしてウシハク者は、権力と財力を持っていますから、権力や金力に群がる亡者たちを利用して、さらに一層、自らの権威権勢を高めようとします。
今日ご紹介した藤原仲麻呂も、反乱者として首を刎ねられ、連座した375人も追放処分となりました。
そして皇統を護ろうとした和気清麻呂も、別部穢麻呂(わけべのきたなまろ)というひどい名前を与えられ、暗殺までされそうになり、すでに高齢となっていた姉までも流罪にさせられるというひどい仕打ちを受けました。
同様のことは、幕末においても、吉田松陰、橋本左内、河井継之助、頼三樹三郎、安島帯刀、梅田雲浜などが死罪となり、またそれ以前にも天誅組の中山忠光などが殺害されています。(天誅組大和義挙の変)
ウシハク者は、権力と財力を持ちます。
けれど日本は、シラス国です。
ひとりひとりの民衆こそが、国の宝とされているのが日本の国柄です。
そしてその国柄を護ろうとする者は、いつの時代にあっても、大きな権力に素手で立ち向かう悲哀を味わいます。
「それでも立ち上がる」和気清麻呂のような、そういう人物が歴史の節目節目に現れることによって、日本は、日本の国柄が守られてきました。
和気清麻呂は、奈良時代末から平安時代初期に生きた、いまから1300年も昔の人です。
そしてその心は、現代日本にも、いまだしっかりと息づいています。
日本を取り戻す。
そのために、日本人のひとりひとりが、その心を取り戻す。それみんなでやる。
そうなれるよう、気づいた人が、ほんのちょっとで良い。できることをする。
それが、わたしたち昭和を生き、平成の世を生かせていただいている日本人の、最後のご奉公なのではないでしょうか。
※この記事は2014年11月の記事のリニューアルです。
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