第4部(5)安全最優先に「純国産」の英断
昭和59年7月22日、九州電力玄海原発(佐賀県玄海町)の2号機が、連続運転415日の世界記録を達成し、定期検査に入った。原発開発で米国や 欧州に後れを取った日本。しかも首都・東京から遠く離れた地方の電力会社による快挙は内外の関係者を驚かせた。九電が世界有数の原発建設・運営技術の高さ を誇る「原発優等生」の地歩を固める記念日ともなった。
福岡市中央区渡辺通の九電本社も熱気に包まれた。2号機の建設・試運転に携わった檀博之氏=当時(29)=は高ぶる気持ちを抑えきれず、同僚たちと固い握手を交わした。
檀氏は東京大で原子力工学を学び、52年に九電に入社した。その2年前に玄海原発1号機が運転を始めたことが九電に入る決め手となったという。
「日本で初めて純国産にこだわった玄海1号機は大学でも話題でした。1号機で先輩方が蓄積した経験と技術があったからこそ2号機で世界記録を樹立することができたんですよ」
九電が原発導入計画を打ち出したのは、世界記録達成からさらに30年前に遡(さかのぼ)る。急増する電力需要への対応、そして他電力会社に比べて割高な電気料金の引き下げ。当時抱えていた2つの懸案を一挙に解決する手立てとして浮上したのが原発だった。
■祝福されぬ設立
昭和26年、「電力の鬼」と称された松永安左ェ門の構想に基づき、九州地域の発送電を一貫して担う電力会社として九州電力が設立された。
だが、地元自治体や経済界の視線は冷ややか。というより露骨に反発した。九電の電気料金が、全国平均に比べて10%前後割高となり、九州の戦後復興、工業化が遅れると考えたからだ。
電気料金が割高となったのは理由がある。九州北部は全国有数の石炭の産地だったため、九電は火力発電の比率が大きく、この時期の石炭価格の高騰が電気料金 に跳ね返ったのだ。加えて、山間・島嶼部を数多く抱えており、管内のユニバーサルサービスを実現するには莫大な送電コストを要する。戦後の電力9社(現在 は10社)の中でも不利な条件下でのスタートだったといえる。
地元にさえ祝福されない。そんな不遇な誕生こそが、九電の「社是」を生む。「どこよりも安い電気料金を実現しよう」。以後、九電の経営陣は代々、この重い課題を背負い続けてきた。
「次世代のエネルギー」として原子力に目を付けたのも早かった。九電が総合研究所内に原子力研究室を開設したのは昭和31年。設立から5年後だった。
■火力の蓄積生かす
30年代後半、原発新設の計画がいよいよ本格化する。「失敗は許されない」。これを合い言葉に担当者は原子炉と立地の選定作業を慎重に進めていった。
原子力発電は、核分裂による熱エネルギーで水を沸騰させ、生じた蒸気で発電タービンを回す。その型式はさまざまあるが、核燃料に直接触れた水でタービンを 回す沸騰水型軽水炉(BWR)と、核燃料に触れる1次冷却水と、タービンを回す2次冷却水の2系統を有する加圧水型軽水炉(PWR)の2つが主流となって いる。
昭和45年3月、九電は東京電力が採用するBWRではなく、関西電力と同じPWRの採用を決めた。
決め手となったのは、九電が高い技術を誇ってきた火力発電との共通性だった。原子力建設課長として1号機建設に携わった徳渕照雄さん(87)はこう説明する。
「PWRでタービンを回す2次冷却水系統は、理論上、火力発電とまったく同じ構造なんです。これならばわれわれの技術と経験が生かせる。当時の経営陣はこう考えたんでしょうね」
実際、徳渕さんら創生期の原子力部を支えたメンバーは大半が火力発電の技術者たちだった。
■安全上の判断
当時、国内の原発は、原発先進国だった米国メーカーから設備も技術も運転ノウハウもすべて丸ごと輸入するのが普通だった。
ところが、九電は玄海1号機の建設にあたり、米・ウェスチングハウス(WH)の技術を導入した三菱重工業と契約を結び、「純国産の原子炉」を作ることを決めた。
純国産にこだわった理由はただ一つ。安全性への配慮だった。海外製を導入すれば、建設は手っ取り早くコストも抑えることができるが、何らかのトラブルが発 生した場合、海外メーカーとのやりとりに手間取られ、事故の対応でもっとも重要となる初動対応に後れを取る可能性がある。部品の交換も手間取る。最悪の場 合、事故やトラブルが発生したのに海外技術者の到着を待たなければ、何も手を付けられないことも十分あり得る。当時の経営陣や技術者はこう考えたのだ。
この懸念は、平成23年の東電福島第1原発事故で不幸にも的中した。
福島第1原発1号機は、米GE(ゼネラル・エレクトリック)に着工から運転開始まで全責任を負わせる「ターンキー方式」で契約し、建設された。 GEは津波の危険性を軽視し、丘陵を削って1号機を建てた。事故直後、電源車のプラグが合わないなどさまざまなトラブルも発生した。国会事故調査委員会も 報告書で「原発に関する日本の自主的な技術がほとんど皆無な中で、GE社製品を丸ごと導入したことが、さまざまな形で耐震脆弱性として尾を引いた可能性が ある」と指摘している。
そういう意味でも、九電が、多少構造が複雑となり、建設コストが増えても、純国産のPWRを採用したことは英断だった。原子炉という危険を内包した電源を開発する以上、「安全」を最優先させることが当然といえる。
ただ、日本初の純国産原発の建設。それは、いばらの道だった。
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