第4部(6)忘れえぬ玄海原発1号機「初臨界」
昭和42年夏。九州電力土木部の社員は佐賀県玄海町の値賀崎(ちかざき)地区を汗だくになりながら歩き続けた。玄界灘に突き出た巨大な岩の固まり ともいえ、豊臣秀吉が築いた名護屋城跡もほど近い風光明媚な地ではあるが、交通の便が悪いことなどから、戦後の開発から取り残され「九州のチベット」と陰 口をささやかれる過疎地だった。
社員がここを訪れたのは、九電初の原発立地としての適性を調べるボーリング調査を実施するためだった。炎 天下での熱射病を防ごうと、社員たちは、精力剤として知られ、漫画「巨人の星」にも登場する昆虫「九龍(きゅうりゅう)虫(ちゅう)」を生きたまま飲み、 作業を続けた。
苦労の甲斐あって、この地域は厚さ3000メートルにも達する巨大な岩盤上にあることが判明した。過去の文献などからも大津波がきた形跡はなかった。最大電力消費地・福岡に近いこともあり、翌年に玄海町への原発立地が決まった。
●部品は火力の5倍
だが、九電選りすぐりの技師たちが、三菱重工業とともに基本設計を進めた純国産の加圧水型軽水炉(PWR)の完成・稼働までの道程は苦難の連続だった。
部品数は火力発電所の5倍。建設コストも、ほぼ同時期に建造していた火力発電所の2倍に達するとの試算もあった。
第1次石油危機(48年)前で原油価格が安かったこともあり、国内は石油火力発電の全盛期。原発がいかにランニングコストが安いからといって建設費を削減しなければ優位性は揺らぐ。九電上層部は技師らにこう厳命した。
「安全に関わる品質は絶対に確保した上で、それ以外は建屋を小さくするなどコスト削減を進めろ!」
後に原子力建設部長を務める徳渕照雄氏(87)は先輩社員がこう漏らしたのを覚えている。
「玄海1号機の設計をやっとるときは、九電最初で最後の原発かもしれんなあと思ったよ…」
主に火力畑から集められた九電精鋭の技師たちは、ポンプ、モーター、バルブなどが複雑に絡み合う配管やケーブルの立体図を手書きで作成していった。すべて が安全性能とコスト削減に関わってくる。失敗は許されない。何度も何度も計算をし直し、部品も一つ一つ吟味した。それはクレバスを避けつつ、一歩一歩冬山 の頂きを目指すがごとく過酷な作業だった。
原子力安全委員会による安全審査も通り、45年に原子炉設置が首相に許可された。玄海原発1号機の建設工事が始まったのはその翌年だった。
●不断の努力
50年1月28日。日本初の純国産原発である玄海1号機は臨界した。携わった九電社員にとって生涯忘れられない日となった。
すでに建設現場を離れ、原子力建設課長を務めていた徳渕氏は、福岡市中央区渡辺通の本社で「臨界に到達しました!」という一報を受けた。
「予定された通りの臨界到達でしたから、誰もこぶしを突き上げたり、拍手をしたりはしませんでした。私も小さな声で『よし!』とつぶやいただけ。でも大げさに喜ばなくとも、社員みんなの気持ちは同じ。社内にじわじわと喜びが広がっているのがよく分かりましたよ」
喜びと同時に緊張感も走る。これまでの苦労を無駄にしないためにも失敗は許されない。だが、この5カ月後、徳渕氏らの一抹の不安が現実になる。
「放射能漏れが認められました…」
50年6月10日、玄海原発から九電本社に1本の電話が入った。蒸気発生器の細管1本が損傷し、放射性物質に汚染された1次冷却水が、2次冷却水系統に漏れたのだ。
損傷はわずかで、外部への放射能漏れはなかったが、本社には激震が走った。すぐに原子炉を停止させ、原因究明を急いだ。
「何だこれは?」
蒸気発生器を分解調査していた技師や作業員全員が顔を見合わせた。鋼製の巻き尺。建設中に作業員が置き忘れた小さな巻き尺が細管を傷つけたのだった。
九電は直ちに対策に乗り出した。入退室時の作業員の所持品検査や、名札の縫い付けなど、どんな小さな工具類も落としたり、置き忘れたりしないようさまざま な工夫を凝らした。システムの改善も進め、放射性物質漏れを検知した場合、蒸気発生器から水を排出するパイプに、自動で閉じる弁を取り付けた。
「管理規則や要項を一から見直しました。何より安全への意識を再構築しなければならなかった。安全対策には不断の努力が必要なんです。わずかな妥協や心の緩みが事故を招く。それが原子力という巨大なエネルギーを制御しようとするものの心得なんですよ」
「巻き尺事件」により予定から3カ月遅れ、玄海1号機は昭和50年10月15日、国内9基目の原発として営業運転を開始した。運転開始のセレモニーで当時の社長、永倉三郎氏はこう語った。
「長い道のりでしたが、九州に初めて原子の灯がともった意義は大きく、全社員一丸となっての努力、協力に感謝します。この玄海原発で安全運転を実証することが、原子力発電について地域の信頼を確立する最も確かな方法だと信じております」
1号機は順調に運転を続け、56年5月に345日連続運転の国内記録を樹立。3年後に玄海2号機が連続運転の世界記録を塗り替えた。永倉氏の言葉通り、「安全の継続」が地域の信頼に繋がっていった。
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