第4部(7)スリーマイル事故に震撼 「北の大地」で花開いたノウハウ
日本初の純国産原発、九州電力の玄海原発1号機が営業運転を始めたのは昭和50年10月だった。設計・建設に際して、メーカーの三菱重工業と九電は、安全性向上に細心の注意を払ってはいたが、継続運転にはハード面の安全管理だけでなく、稼働に関わる従業員のレベルアップが不可欠となる。
こうした判断から九電は運転開始の3年前、その中核を担うべき優秀な従業員9人を、米・イリノイ州に派遣した。期間は8カ月間。加圧水型軽水炉(PWR)の草分けとして知られる世界有数の原発メーカー、ウェスチングハウス(WH)の訓練センターで、原発の運転操作や故障時の対応、緊急時の操作を学ぶためだった。
試験と英語漬けの毎日。朝から8時間ぶっ通しで、運転操作のシミュレーションをすることもあった。彼らの使命は、単に運転技術を学ぶだけでない。マニュアルを作り、後進に伝えることも重要な任務だった。
9人は帰国すると、玄海1号機の詳細な運転操作手順書などを独力で作成した。それは「原発時代」を迎えた九電のかけがえのない宝物となった。
●直感的な危険察知を
稼働直後にトラブルに見舞われた玄海1号機もその後は順調に稼働を続け、2号機の建設が進みつつあった昭和54(1979)年3月28日、世界中の原子力関係者に衝撃が走った。米スリーマイル島(TMI)原発2号機の炉心損傷事故。原子炉の1次冷却水が開きっぱなしになった弁から蒸発し、不足したにもかかわらず、水位計が正しい値を示さなかったことで運転員が「冷却水で原子炉が満杯になっている」と誤認し、メルトダウン(炉心溶融)を引き起こした。
国際原子力機関(IAEA)が定める事故尺度でレベル5と判定され、1986年の旧ソ連のチェルノブイリ原発事故が起きるまでは「史上最悪の原発事故」と言われた。
TMI原発事故の発生当時、中央制御室で100個以上の警告ランプが同時に点灯し、警告音が鳴り響いた。半ばパニック状態になった従業員は、冷却水を原子炉に流し込む非常用装置を手動で停止し、反対に冷却水の排出を始めたことが被害を拡大させた。後から駆けつけた従業員が水位計の誤りを見抜き、福島第1原発事故(レベル7)の水素爆発による放射能拡散という事態は免れたとはいえ、原発技術者に与えた衝撃は計り知れない。TMI原発と同じPWRを採用した九電にとってはなおさらだった。
事故当時、玄海2号機の建設事務所におり、今は九電関連会社執行役員を務める檀博之氏(58)は上司から即座に制御室の簡素化を命じられた。
原発をコントロールする中央制御室には、1基あたり400個のメーターと、700個の警報ランプが並ぶ。檀氏はこれを系統ごとに1つのテレビモニターで表示する方式に変更し、操作ボタンも系統別に色分けした。建設途中の玄海2号機は設計を変更した。今の国内の原発はほとんど、この方式を導入しているが、当時としては画期的な試みだった。
「機械が示す情報を従業員に正しく伝えることが何よりも重要なんです。従業員が直感的に危険を察知できるようなインターフェースがなければ、事故は防げないと考えました」
当時、九電原子力部の安全担当部長だった徳渕照雄氏(87)は、これら改善策の資料の束を手に、毎週のように上京し、原子力安全委員会などで説明を続けた。打ち合わせは未明まで続くこともしばしば。徳渕氏はこう振り返る。
「福島第1原発事故後、『原子力ムラ』と批判されるが、少なくとも当時は、なあなあの体質などは一切ありませんでした。必死になって作った書類を突き返されたことも一度や二度じゃありません」
●技術者魂と熱意
九電がTMI原発事故の対応に追われていた昭和54年4月、北海道電力原子力部の高野芳之氏(64)は若手技師のホープとして玄海原発2号機の建設に携わっていた。九電が培った原発技術を学び「北の大地」に根付かせる。そんな社命を受けての赴任だった。
北電はすでに九電と同じPWRの採用を決めていた。当時、関西電力や四国電力もPWRの原発を運転していたが、九電を派遣先に選んだ。企業規模が近かったこともあるが、原発への並々ならぬ熱意を感じたからだったという。高野氏はこう語る。
「巨大な玄海原発1号機を見て『これを北海道に作るんだ』と思うと胸が高鳴りました。九電の技師たちはどこまでも親切に、包み隠さずノウハウを教えてくれました。どうやって大きなトラブルもなく原発を稼働させることができるのか。それを学ぼうと必死でしたが、何よりもその技術者魂と熱意に触れられたことが大きな収穫だったと思っています」
高野氏は檀氏と机を並べ、マニュアルにはない原子炉制御のノウハウや危機管理を学んだ。何より驚いたのは、「安定した継続運転」を目標とした玄海のシステムだった。原発は計器類や制御装置に些細なトラブルがあっただけで運転を停止せざるを得ない。玄海原発は、計器や制御装置を複線化することでトラブルの原因を早急に突き止め、稼働しながらも問題を解決し、同様のトラブル防止する対策を講じていた。これは1号機稼働直後の「巻き尺事件」で得た貴重な教訓だったともいえる。
檀氏ら九電の技師は、努力の結晶である運転マニュアルも惜しむことなく高野氏に提供した。週末には佐賀県唐津市に行き、焼き鳥をつまみながら深夜まで原発の将来について議論を交わした。
原子力という計り知れないエネルギーを人が完全に制御しようと考えるのはおこがましいかもしれない。だが「事故を起こさない」「万一の事態でも周辺住民への被害拡大だけは絶対に阻止する」-。その使命感は北電にも受け継がれた。北海道電力泊原発1号機は平成元年6月、営業運転を始める。PWR運用のノウハウは、日本列島の北と南の友情により、さらに蓄積されるようになった。
アメリカのマスコミを踏襲しているようでは、真実が捻じ曲げられるだけかも。