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1988年ベルリンの壁が崩壊します。
その波は、年が変わった1989年6月に天安門広場で民主化を求めるデモは、改革派だった胡耀邦元総書記の死がきっかけとなり、自由を求める学生・労働者を中国共産党は共産党自衛軍である人民解放軍を学生を中心としたデモ隊の鎮圧に投入し、血生臭い惨劇が世界に拡散されて、結果、世界が中国投資にしのぎを削っていた時期に、世界的規模のスケールで対中国経済制裁が行われます。
そして、制裁3年目の1992年に平成天皇皇后両陛下の訪中が行われ、これを機に世界主要国による中国投資は過熱状態で行われることになり、中国の経済的近代化が一挙に、それも過熱と言われるレベルで集中され、中国のモンスター化が加速される起点になります。
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その起点になった天皇皇后訪中を実現させるのが、宏池会政権の宮澤喜一総理であり、この下工作は、宮沢政権以前の政権に遡ることができます。
つまり仕掛け人は、田中派を継承したと言われている竹下派・竹下政権と、その傀儡のような海部政権下で、中国共産党により対日政官工作が巧妙の実行され、その結果、宮沢政権下で、歴史的な天皇皇后両陛下の訪中が実現したとみれば流れが見えてきそうな気がします。
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次の政権ブロックで上段の状況が透けて見えてきそうです。

私見を加えるなら、バブルでふるさと創生金をばらまき、強力な政権運営を実現した竹下政権後、宇野政権は、箸にも棒にもつかないようなスキャンダルで2カ月余りの短命政権であったことを踏まえなら、外交として梅雨払い的深謀や日中の丁々発止があったとは想像不可能です。
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「スキャンダル」で崩壊した政権の後の政権としては、三木派の海部俊樹政権は、最大派閥である竹下派の竹下登元総理とその派閥の幹部であり、4奉行とも言われた、派閥の重鎮には最適な総裁候補として、実現が可能になった政権と言われていますが、その状況が見えてきそうです。
竹下政権以降の始まる、お粗末政権はの始まりの原点、その後の第二次安倍政権誕生まで続く短命政権は、実に、「竹下登元総理とその派閥の幹部であり、4奉行」という「黒衣・くろご」の存在を避けるのは難しそうな気がしてなりません。
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つまり中国のモンスター化の先鞭をつけたのが、ポスト佐藤栄作政権の田中政権であり、継承した竹下派、宏池会の連携下で醸成されたものとみれば、色分け、分類が容易になります。
特に日本の「失われた30年」を投影させれば、上述の説明はさらに容易に鮮明になるはずです。