メールも携帯もラインもない時代、唯一のメッセージは文書であり、遠隔地との通信手段は、電話か、手紙ですでしたネ。。
浪人中は新宿駅ビル(東口)の一階にあった、NTTの電報発信窓口は頻繁ではなかったデスが、そこそこ利用してたはずです。。
学生時代に故郷のある方と交わした9月の文面に、書かれていた「Sptember song ね」の文字が半世紀を過ぎても記憶に残ります。
使用した紫陽花については、次回かそこらの投稿でネタあかしを申し上げます。
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直近でも、極めて身近な親戚の旅たちを知り、奈落の底に落とされたような状態で、この4週間近い間、自主ボイトレをしておりません。
SeptemberSong の冒頭が
When I was a young man courting the girls
I played me a waiting game
I played me a waiting game
一節をおいて、I’d let the old Earth make a couple of whirlsが続いた歌詞だが、当時 whirlsの意味がわからなかった。。 が、映画・「旅愁」の中で歌われた?挿入された曲だと知ったのはそれから数年後でしたデス。
今にして思えば、学生寮で好き放題、ほとんど勝手気ままに生きていた時代には、単なる頂戴した手紙の一節の少々オシャレな挿入という認識しか無いくらい軽薄な学生時代であったことを後年知ることになり、自己嫌悪で、凹んだ時期があったことを今でも記憶に残りますデス。
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こんな軽薄な自分を家族として向かい入れてくださった、新しい家族の方々を、櫛がかけるように、病魔が襲ったことが、とても耐えられないくらい辛いことだと、最近の義姉の訃報で思い知らされました。
故人の娘・姪とライン通話で知った不幸は、衝撃で、たいした会話にもならず、せで途方に暮れ、帰国もままならず、結局テキストメッセージを複数回交わして今日にいたっております。。
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一報を聞いた時は呆然となり、本当に冷酒を湯呑みで飲みたくなるような衝動でしたが、結局、日本酒を買いにいく気力もなく、いつもの安スコッチのストレートを煽りながら、データー処理した昔の写真画像を眺めていました。
周りがかけていくと、子供のいないkazanは、一気に孤独の奈落にいるようで、なんとか従来のリズムを回復シたいと思うのですが、歌う気にもなれず、悶々としております。
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今日8月31日が、アメリカのアフガン撤退完了の日ですが、kazanにとっては、20201年の8月は限りなく落ち込んだひと月になりましたデス。
一日も早い帰国を妨げている、中共ウィルスに心底から怒りを覚えます。
その意味で、kazanの人生で従来の9月は、冒頭のSeptemberSongにからむ淡い思い出であったはずのものが、はからずも、生きていることの旅の愁いに重なる感傷に化学変化したようで、始めて「望郷」という言葉の重みを知らされたような気分になっています。