展示されている「ゼロ戦」を二回見たことがあります。
初めて見たのは、東京・上野科学美術館です。
確か、なにか大きな展示会があって、オープン前日の午後、レセプションがあったので招待状を持って会場の入ったのが、2006年3月11日で←これは自分のブログで確認したので間違いないでしょう(^o^)
その次が靖国神社の遊就館一回のロビーです。
かって、パプアニューギニアのプロジェクトの現地調査で機材をWewak・ウエワクからMount Hagen・マウントハーゲンまでの移動が車両移動が困難という事情で急遽4人乗りか5人乗り(パイロット込)の軽飛行機をチャーターしメンバー7人が機材を分担して、二往復で移動するという計画です。
そんな訳で機内の広さといえば、軽自動車をすこしばかり余裕をもたせたような大きさです。航空マニアではないので、思ったことは「セスナというのは、案外小ぶりで小さいもの」というイメージがインプットされました。
その先入観から、単座、あるいは複座の旧軍の戦闘機は、空母の艦載機になったくらいだから、自分が乗ったセスナ(軽飛行機=セスナという認識かないデス)とたいして変わらいかそれよりも少々デカイくらいと言う勝手なイメージを作り上げていました。
しかし、東京・上野科学美術館で見た機体のイメージはセスナどころか、むしろ当時の国内線専用のローカル機種の「YS-11より小さい」という表現のほうが的を得ていたように思えます。
ブログを引用します
先日、上野の科学博物館で、ゼロ戦の展示を観た。
驚いたね。
ゼロ戦は、単座か複座仕様の戦闘機と理解してまして、海軍機でもあり航空母艦に艦載されてたことも考えると私の想像では、現在の小型セスナ機と同等かそれよりも幾分大き目位と思っていたんですが、その大きさには驚きましたよ。
操縦席の横幅というのかね、その幅が普通自動車の役2/3位あって、室内で見たせいか、大変な重量感を感じた次第。
説明書きがあって、当時6000機ぐらい製造されたそうな。(説明には正確な数字が記載されたおりました。)
当時は陸軍も戦闘機を持っていました。中島飛行機の隼、これも有名ですね。その他、陸海軍機には偵察機や陸軍機には爆撃機等。海軍機にはさらにゼロ戦の後継機として紫電改なんて言う戦闘機もあった訳だから、想像するに、当時10000機以上の航空機が製造されたのではないでしょうか。
この重量感にあふれた迫力ある航空機が当時10000機以上製作された事実は、考えてみると大変な事だったと思う。
よく開戦時の対米の工業生産や鉱業生産のレベル比較を見たり、聞いたりするけれど、そこで判ることは、米国に対して日本の生産力が圧倒的に劣っていたということ。
すると、圧倒的に劣勢な生産環境の中で、よくも10000機以上も生産したものだと、驚きを通り越して感動すら覚えるものです。
戦後、なにかにつけて過去を否定する風潮があるやに思われる今日、展示されたゼロ戦が、私に何かを無言で強力なメッセージを発しているように思われた。
当時の記述のミスを指摘します。
当時ブログ投稿した頃、自身の検索能力の未熟とネット空間でのデーター不足もあり、展示されていたゼロ戦の脇にあった説明板から10,000機位という記述をしてました。
また、ゼロ戦は三菱、隼は中島飛行機という先入観もありましたが、後年、ゼロ戦のエンジンは中島飛行機が生産してた事実も知りました。
防衛研究所のデータでは、1939年から終戦の1945年までの航空機生産数という資料から、79,123機という数字が判明しました。
これをどう見るか。。
資源ゼロ国の日本が、79,123機の軍用機を戦場に投入した事実にまず驚きます。
「ものづくり」の底力、国民総動員で作り上げた数字と見るなら、これほど、誇らしい数字はないのではとの感慨に至る思いです。
今日たまたま、別の検索作業で防衛研究所の部分を検索してたら、先の大戦時における「軍用機生産数」がヒットしたので、本稿で投稿更新をします。