人は、ふるさとびと

お帰りなさい と迎えて
下さる神様は、私達の
ふるさとなんです。

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い の り

2012-01-30 09:42:44 | スピリチュアル
いのりというのはどういうものかというのは、考えれば
考える程わからなくなる。まじめな信者さん
である程そういう質問をよく受けます。そういう人ほど
良心的で考え込んでしまって、自分が出来ていないのに
人に薦める訳にはいかないとか、共に祈るような資格は
私にはないんじゃないかとか。そうなるとちょっと
ノイローゼに近い位に悩み込んでしまっている。

 祈りというものは、神様と私の対話なのです。と
同時に、世界人類と私の祈りでもあります。
 この場合の世界人類というのは、地球の世界人類
だけではなくて、宇宙全体の宇宙の星の兄弟たち
との一人一人との、その交信も含みますね。
 ですから、真に広い幅になる訳です。そこまで
考えていくと、私共の世界人類が平和でありますように
という祈りというのは、非常に大きいし深い。そして、
自分が出来るか出来ないかということではなくて、
もう向こうの方で抱きとってもらってる訳なんですね。
 ですから、何も考えずに祈るというのが一番いい
訳なのです。四の五の言ってる間は理屈なんです。
 祈りというのは理屈を超えたものなんです。

 そんなこと言ったって祈れませんという時は、
祈れなくていいのです。集会に行きたくないのに
無理に集会に行ったり、何か行事があるから絶対に
人数がいるからといって集めたって、それは
どうにもならないんです。その人の気持ちが
どうにも向かないという時に、無理に薦めたって
それは萎びるだけなんです。本体と肉体は違う
訳だから、本体は行きたければ、さっさと霊体が
行っちゃってる訳です。自分の肉体がどうであれ、
霊体は行って統一会に出たりなどしている
訳ですから、そこまで我々の肉体人間が神経質に
なることはないんです。

 ですから、真面目な人ほど色々色々考えるけれども、
しかし、そうじゃなくて、もう一回、子供みたいに
無邪気になって、世界人類が平和でありますように
という風に祈る。祈って任せる。そこからでないと
我々の道というのは開いていかない。そういう風に
思います。
        昭和63年6月13日(月)
             五井 昌久