神を信ずる
ということは
神にすなおになる
ということであります
すべてを
神に任せ切り
ゆだね切って
何のとらわれも
不安もなく
世界平和の祈りのもとに
人類のいのちが
ひとつとなり
愛の光が
この祈りを柱として
世界を駆けめぐってゆく
それらは
肉体人間のわざではなく
光のいのちである
神と
この神のわかれの
いのちである
本来の人の
霊なるいのちが
結ばれたときに
なされてゆくのであります
すべてを
消えてゆく姿として
ながめ
すべてを
変化(へんげ)するものとして
祈りのなかに投げ込みますと
最後にのこるものは
神の愛であり光であります
そして
この神の愛と光とが
私ども一人ひとり
個々の天命のなかに
分けられていることを
おもいますと
実に私どもは
ほろびざるいのち
滅することなき
いのちを
このからだに
戴いていることに
気付かされるのであります
もとより
肉体は
この地上を生きるために
まとったものであり
それを
大事にしてゆかなければならないことは
無論のことでありますが
私どもは
神の愛という
無限のいのち
おわることのない愛と
尽きることのない
光に
支えられた
存在であることをしることが
何よりも
自分自身を
解き放ち
真実に
自己を自由に
してゆくことになるのであります
自在ないのちで
あることをしるために
祈りがあるのでありますが
なかんずく
世界平和の祈りは
この身のまま
こころのままに
本心(神、真実の自分自身)
へとおり立ち
至らしめられる光の祈りでありまして
人類は
すべて
この祈りのもとに
結集してゆくことに
なっているのであります
なぜなら
人間の本体は
絶えざる
神の愛から
わかれてきた
いのちであり霊でありますが
一つの利益も求めず
ただ
この宇宙にみちている
神の
愛と
調和と
平和の気を
満たしむる
神の心が
この祈りのうちにあふれている
からであります
そして
肉体身を
まとった
私どもも
その神からの
分生命(わけいのち)
分霊(わけみたま)
でありますから
そこには
本来の
自分自身のすがたが
かがやいている
ということになるのであります
すなわち
祈りのうちに
自分をたずねる
ということは
神の愛をたずねる
ということであり
神の愛が
私どものいのちのなかに
分けられ
私ども一人一人が
光のいのちとして
世界平和の祈りのなかに
働かしていただく
器として
そなえられているということを
おもいますときに
この極みのない
神の計画が
あらわれてくることを
たたえずにはいられないのであります
私どもの天命
それは
その人々が
その持ち場
持ち場に
おいて
神が
愛であることを
この身と心とに
刻んで参ることであります
人は
そのために
この世に生をうけるのであります
光と光とが
愛と愛とが
智恵と智恵とが
神によって
祝され
完全平和にむけて
人は
その
世界平和の使徒として
祈りのうちに
本心をかがやかせて
ゆくので
あります
自分を好きになること
自分をほめること
自分を労わること
これらは
何よりも大事なことです
なぜなら
自分を責めるところからは
何も
生まれてこない
からです
自分は駄目だという
おもい
自分をいやしめ
おとしめて
暗くくらく
なってゆくところから
生じてくるのは
我であり
とらわれであり
自分は
これだけの
人間でしかない
という
限定であります
人は
そういう風に
思うことに
慣れて
今日までを
生きてきたので
それは
肉体を自分自身とみる
ところから
生じた点で
無理のない
ところもあったのですが
人間というものは
無限定の
神の愛から
生まれてきたものであり
神から
わかれてきた
ものであることを
一人のこらず
しってもらうために
世界平和の祈りが
私に託されたのでした
人が
闇のすえではなく
光のすえであり
光の子であること
人は
自らきづかないままに
つねに
神に祈りをささげている存在であること
神の愛のうちに
我々は
個を持ったまま
永遠のいのちの
ながれへと
とけ入る存在であることを
世界平和の祈りは
しずかに
私どもに教えてくれるので
あります
神のみこころ
みいつ
そのままの
祈り
本源の光の
祈り
である
世界人類が平和でありますように
日本が平和でありますように
私達の天命が完うされますように
守護霊様
守護神様
ありがとうございます
と言う祈りを唱えるとき
私どもは
私どもの
ふるさとである
神へ
本源のいのち
光へと
回帰し
自ら
そのいのちの光を
身におびて
生かされている一人一人
であることを
神の大愛のうちに
しらされてゆく
のであります
生かされている
いのち
光のいのち
神とともにあり
つねに
平和の祈り言のなかで
すきとおってゆくいのち
そのいのちを
自他にかがやかして
この世に
生きて参りますとき
私どもは
一生活者
一常識人の
すがたのままに
神のいのちに
つらなり
平和の果実を
実らせてゆく
一人と
ならせていただくのであります
さりげなく
祈り
ただ祈り
呟きをも
祈りに
かえて
ゆくときに
私どもは
光のいのちを
発揮してゆくのであります
肉体人間としての私は
凡夫でありますが
ひとたび
世界平和の祈りを
祈るとき
私どもは
すべての
宇宙人類とともに
光の使徒として
世界平和を実現してゆく
一人となって
ゆくので
あります
それはすべて
神の愛と
守護の神霊
宇宙天使の
加護によるのであります
人が
自らのうちに
自在に働く
自分自身を覚知したとき
とらわれから
解き放たれてゆくのでありますが
それは
絶えざる
祈りによって
覚知されてゆくのであります
そして
朗らかに
生きる
何物も
自分をさえぎるものがなく
ただ
光明のいのちばかりが
自分をとらえてはなさない
神の愛のもとに
たしかに
とらえられて
もう
二度と
さ迷うことがない
ことを
しるのが
私どもの天命であるのであります
世界平和の祈りは
私どもに
この天命の尊さを
教えてやまないのであります
どうか
世界平和の祈りのうちに
神の大愛を味わって下さい
世界人類が平和でありますように
平成2年1月16日、26日 了
ということは
神にすなおになる
ということであります
すべてを
神に任せ切り
ゆだね切って
何のとらわれも
不安もなく
世界平和の祈りのもとに
人類のいのちが
ひとつとなり
愛の光が
この祈りを柱として
世界を駆けめぐってゆく
それらは
肉体人間のわざではなく
光のいのちである
神と
この神のわかれの
いのちである
本来の人の
霊なるいのちが
結ばれたときに
なされてゆくのであります
すべてを
消えてゆく姿として
ながめ
すべてを
変化(へんげ)するものとして
祈りのなかに投げ込みますと
最後にのこるものは
神の愛であり光であります
そして
この神の愛と光とが
私ども一人ひとり
個々の天命のなかに
分けられていることを
おもいますと
実に私どもは
ほろびざるいのち
滅することなき
いのちを
このからだに
戴いていることに
気付かされるのであります
もとより
肉体は
この地上を生きるために
まとったものであり
それを
大事にしてゆかなければならないことは
無論のことでありますが
私どもは
神の愛という
無限のいのち
おわることのない愛と
尽きることのない
光に
支えられた
存在であることをしることが
何よりも
自分自身を
解き放ち
真実に
自己を自由に
してゆくことになるのであります
自在ないのちで
あることをしるために
祈りがあるのでありますが
なかんずく
世界平和の祈りは
この身のまま
こころのままに
本心(神、真実の自分自身)
へとおり立ち
至らしめられる光の祈りでありまして
人類は
すべて
この祈りのもとに
結集してゆくことに
なっているのであります
なぜなら
人間の本体は
絶えざる
神の愛から
わかれてきた
いのちであり霊でありますが
一つの利益も求めず
ただ
この宇宙にみちている
神の
愛と
調和と
平和の気を
満たしむる
神の心が
この祈りのうちにあふれている
からであります
そして
肉体身を
まとった
私どもも
その神からの
分生命(わけいのち)
分霊(わけみたま)
でありますから
そこには
本来の
自分自身のすがたが
かがやいている
ということになるのであります
すなわち
祈りのうちに
自分をたずねる
ということは
神の愛をたずねる
ということであり
神の愛が
私どものいのちのなかに
分けられ
私ども一人一人が
光のいのちとして
世界平和の祈りのなかに
働かしていただく
器として
そなえられているということを
おもいますときに
この極みのない
神の計画が
あらわれてくることを
たたえずにはいられないのであります
私どもの天命
それは
その人々が
その持ち場
持ち場に
おいて
神が
愛であることを
この身と心とに
刻んで参ることであります
人は
そのために
この世に生をうけるのであります
光と光とが
愛と愛とが
智恵と智恵とが
神によって
祝され
完全平和にむけて
人は
その
世界平和の使徒として
祈りのうちに
本心をかがやかせて
ゆくので
あります
自分を好きになること
自分をほめること
自分を労わること
これらは
何よりも大事なことです
なぜなら
自分を責めるところからは
何も
生まれてこない
からです
自分は駄目だという
おもい
自分をいやしめ
おとしめて
暗くくらく
なってゆくところから
生じてくるのは
我であり
とらわれであり
自分は
これだけの
人間でしかない
という
限定であります
人は
そういう風に
思うことに
慣れて
今日までを
生きてきたので
それは
肉体を自分自身とみる
ところから
生じた点で
無理のない
ところもあったのですが
人間というものは
無限定の
神の愛から
生まれてきたものであり
神から
わかれてきた
ものであることを
一人のこらず
しってもらうために
世界平和の祈りが
私に託されたのでした
人が
闇のすえではなく
光のすえであり
光の子であること
人は
自らきづかないままに
つねに
神に祈りをささげている存在であること
神の愛のうちに
我々は
個を持ったまま
永遠のいのちの
ながれへと
とけ入る存在であることを
世界平和の祈りは
しずかに
私どもに教えてくれるので
あります
神のみこころ
みいつ
そのままの
祈り
本源の光の
祈り
である
世界人類が平和でありますように
日本が平和でありますように
私達の天命が完うされますように
守護霊様
守護神様
ありがとうございます
と言う祈りを唱えるとき
私どもは
私どもの
ふるさとである
神へ
本源のいのち
光へと
回帰し
自ら
そのいのちの光を
身におびて
生かされている一人一人
であることを
神の大愛のうちに
しらされてゆく
のであります
生かされている
いのち
光のいのち
神とともにあり
つねに
平和の祈り言のなかで
すきとおってゆくいのち
そのいのちを
自他にかがやかして
この世に
生きて参りますとき
私どもは
一生活者
一常識人の
すがたのままに
神のいのちに
つらなり
平和の果実を
実らせてゆく
一人と
ならせていただくのであります
さりげなく
祈り
ただ祈り
呟きをも
祈りに
かえて
ゆくときに
私どもは
光のいのちを
発揮してゆくのであります
肉体人間としての私は
凡夫でありますが
ひとたび
世界平和の祈りを
祈るとき
私どもは
すべての
宇宙人類とともに
光の使徒として
世界平和を実現してゆく
一人となって
ゆくので
あります
それはすべて
神の愛と
守護の神霊
宇宙天使の
加護によるのであります
人が
自らのうちに
自在に働く
自分自身を覚知したとき
とらわれから
解き放たれてゆくのでありますが
それは
絶えざる
祈りによって
覚知されてゆくのであります
そして
朗らかに
生きる
何物も
自分をさえぎるものがなく
ただ
光明のいのちばかりが
自分をとらえてはなさない
神の愛のもとに
たしかに
とらえられて
もう
二度と
さ迷うことがない
ことを
しるのが
私どもの天命であるのであります
世界平和の祈りは
私どもに
この天命の尊さを
教えてやまないのであります
どうか
世界平和の祈りのうちに
神の大愛を味わって下さい
世界人類が平和でありますように
平成2年1月16日、26日 了