人は、ふるさとびと

お帰りなさい と迎えて
下さる神様は、私達の
ふるさとなんです。

(記事はリンクフリーです♪)

短 信(十)

2012-02-29 10:01:50 | スピリチュアル
 僕は君の日々の祈りを受けながら、切なく、
すまなく思うと同時に、君の素直さをめで、又、
感謝していたのだよ。

 神にむかう心で一番大事なものは、
子どものような無邪気さであり、子が母を
慕うようにそのふところに飛び込む純な
心なのだ。

 君は感じすぎて、かえって思いを言葉に
出来ないところがある。

 そういう君の僕に対する甘えであり叫び
であっただけに僕の心は痛んだのだ、よく
生きてきてくれた。

 君の人生の中で幾つかのやり切れない
思いや、辛さを自分の中に大事にしまって、
明日というものを見つめて生きてくれた
ことを僕は何よりも嬉しく思い誇りに
思っている。人の気持ちがわかるという
ことは、その人間を深くするが同時に
大変辛いことでもある。

 僕は君の子どもの頃から、人の心に
感じすぎて、返って無表情に立ちつくして
いる君に、何とか早く僕の所へ来る方法は
ないものかと考えていた。

 過去世で君は僕の弟子だったのだから、
つながらない筈はないが、子どもの頃からの
君を見ていると、僕の一人の人間としての
感情は、何とか早くと思ったのだ。

 君が、人を恋しがる人間だということは、
僕が誰よりもわかっているつもりだ。その
恋しがるという感情が、単なる甘えになっては
いないことも、合わせて僕は知っている
つもりだ。であればこそ、君には、君自身が
大事に育み、そだててきたものを土台にして、
その上にさまざまな可能性を試して欲しいのだ。

 僕は決して一人の人間を甘やかすつもりは
ないが、君の御家族よりも僕が一番君の本当の
すがたをしらされ、又、知っている人間だと
自負を持っているからこんなことも書くのだよ。

 少しは人間に慣れたかい、他人に慣れたかな、
まあ、しかしゆっくりやり給え。

 君は時々、僕の所に遊びに来てるんだが、
覚えていないかな。

 一年一年、年をかさねると、誰かしらを傷つけ、
追いつめて、考えれば僕らはその犠牲の上に
生きているといってもいいすぎではない。
 しかし僕がいつもいうように、生命の流れ
というものは本来、ほがらかで明るいものだ。
 傷つき、傷を負ってあるいは傷を
負わせることは、人間にとって深い痛みに
ちがいない。しかし、それを必要以上に
自分のせいだとか自分の責任だと思いすぎると、
せっかく守護神や守護霊や僕が用意した運命を
せまく暗くしてしまうことになるんだ。本当は
僕は、こういうお説教じみたことを、こうして
君に書きのこしたくはない。君という人は、
一生懸命考えすぎて、背負ってしまうところが
あるから、なるたけなら言葉にせずに、小さな
運命のつみかさなりを君の前には贈りたいのだ。

 しかし、あまり色々考えて、自分の運命を
自分勝手な箱の中にとじ込めておくのは、
どう考えても、面白くないじゃないか。

 だから、忠告めいたことをここに
つけ加えるのだ。

 このことは、君のこれまでの時間をずっと
みてきての僕の大きな希望でもある。

 僕が考えに考えて君のそばに置いた友人は、
そういう君と僕との希望を無理なくかなえて
くれると思っている。

 悟る前の僕は、寂しいところのある
ロマンチストだった。いつも真理を求めて、
悟ったと思う直前でその喜びが破られた
ことがしばしばあった。僕の孤独、それは
大勢の人の中にいて、自分がひとりだと思う
瞬間を消し切れぬ種類のものだった。

 人は誰でも好んで孤独を求める者はいない。
 けれども、親しい(家族を含めて)人達の中に
いて、忽然とひとりのおもいが湧き上がってくる
あの瞬間の孤独の深さを僕は覚えている。それが
詩になり、音楽になったのだ。

 君をみていて、僕は僕が若い時に感じ切った
孤独を想ったのだ。そして、同時に、
その孤独を生かし切るだけの魂と愛とを、
神が備えて下さったことに僕は感謝したのだ。

 こういう手紙だからいうが、実際、嬉し涙を
流したよ、僕は。

 生きるということは大変だ。

 出会うことも別れることも、これは、
これを上手くやろうとすれば、人生にとっての
一大事業だ。

 しかし、かっこうだけはつけずに、君らしく、
どんな出会いにも別れにも心を対じして
欲しいのだ。

 僕のいつもいう素直というのは、こういう
ことだ。

 自分を愛し、人生を愛する。その愛し方は
さまざまでも、かっこうをつけて本音を
出さないというのでは何もならない。

 神の世界は理想の世界ではない本質の
世界なのだ。

 自分の本当の姿をみきわめる勇気が、
この世において大切なのと同じように、神の
世界ではすなおな本音を出して生きることが
最も大切なのだ。

 僕は今、光の中にいて、一人一人のおもいを
光にしてかえしている。けれど悟る以前の
僕の気持ちや性格というものは、一人一人と
調和するために僕の中にのこっている。それは
決して脱けがらではないんだ。

 僕は愛程大事なものはないといつも説いて
いるけれど、愛程、深くてすばらしく、
反面で、重く、やり切れないものはない。僕は
ずっと個人相談をしてきて実際そう思うよ。

 けれど、それは、愛がやり切れない
のではなく、家族や恋人や友人や、あらゆる
人間関係の中でおこる重苦しさや、
やり切れなさがたえられないのであって、愛
そのものは、輝やいているものだけれども、
しかし、会うべき人には早く会って、
愛し合いたいと思うのが、人間の
いつわらざる心情だろう、僕は宗教家では
あるが、こういう人間の自然な心の
移りぐあいを決して馬鹿にはしていない。
 人の心というもののすぎゆきや、
移り具合いを、知らなければ、どうして
宗教家などといえるだろう。

 君はいつか、僕が「白光であることを
忘れなさい。」といったことを覚えている
だろう。あの時僕は、宗教というものに
とらわれて、自分自身も、ごくあたり前の
気持ちを持つ人間の一人だということを
忘れ果てて、ただ、しゃにむに、神や仏を
とく人達が、この世間にはどんなに大勢いて、
又、それが、どんなに大きく深いあやまちを
与えているかという事実と真実に無関心な
人々が多いことに歎きといきどおりとを
覚えていたのだ。

 白光の会員のみんなは勿論、ずっと君
という人間をみてきている僕としては、
是非とも、まわりのみえない誤った情熱を
心にうえて欲しくはなかったのだ。

 君はかって、
 宗教というものが、なくならなければ
(言葉が)駄目じゃないかとかなしんだことが、
あったけれども、人間の心がみんな本当に
平和になったら、その時、宗教というものは
御役御免になるのだ。

 神の世界は完全平和だ。僕はこのことを
知らせる為に修行をし、生まれてきた人間だ。
 しかし、僕は同時に一人の豊かな人間
であり霊止(ひと)でありたいと思うのだよ。

 どうか、心を豊かに、君が将来に備えられ
与えられた時間をすごしていって欲しいもの
だと、師というよりは、一人の人間五井昌久
として心から願うものだ。

 この頃僕は、祈りは静かな魂、本体の
よろこびだということをしみじみ思う。それは
年をかさねるに従いこちら(神界)へきてから
益々深くなった思いだ。神にいのちを返した僕
にとって、祈りが自分の本体のよろこびである
ことは真理そのものだった。けれども、今僕が
ここに書いた静かなよろこびは、霊体や霊覚
では味わえないものだ。神様という愛の
根元に出会って、一年又一年とすぎ人間の
心に湧いてくるそれは、しずかなよろこび
なのだ。ここで僕がよろこびといったわけは、
人が祈るその動機にはおそれやかなしみが
あることが多い、じゃあそういった生な
人間の声をとどけた祈りというものは、
よろこびなのかということになるんだが、
実はこれはちがうんだ。祈りは神(光)への
エレベーターなんだよ、祈りそのものは
浄めだから決して想いに染まるということは
ないんだ。この真理が、一日一日、一年一年と、
僕の心の中でより確かな重さと位置を
占めはじめたと了解した時から祈りはしずかな
心(本心、本体の)よろこびだと本当に深く
心におもいがふき上がり僕はこうして、いのちを
いただいていることを、真実神に感謝したんだよ。

 一年一年本当のよろこびや涙というものは
静かで、又深くなってくる。しかし、君の
ように若い人には、精一杯、今を生きて
もらいたい。

 つまらぬことをくどくどとかいた。

 どうか元気に、朗らかに。

 僕はいつも君を守っている。それでは。