人は、ふるさとびと

お帰りなさい と迎えて
下さる神様は、私達の
ふるさとなんです。

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続 さやけき生命(7)

2013-09-20 08:49:26 | スピリチュアル
       (前日から続く)
 世界が平和であるようにという誰もが反対
出来ない、そういう言葉を祈り言(ごと)にした。
 これはいつも申しますように、こういう言葉が
祈り言になった宗教というのは他にないんですね。
 それは、誰が読んでも誰が見ても誰が聞いても、
子供が聞いてもお年寄りが聞いても、そんな
馬鹿なとも思わないし、こんなことを言ってとも
思わない。敵をつくらない、自分の本心に
たずねてみても、ああ本当にそうだなあと思える。
 それを私を通して神様が与えて下さった。
 ですからこれは、神様の祈(の)り言(ごと)
なんです。全部結集しているんです。

 皆んなが結ばれていく生命であって、皆んなが
引っ掛りのない生命であって、皆んなが障りの
ない生命である。この障りのない生命が、みんな
赦し合って生きていく時に、社会は本当に平和に
なってゆく。ですから、前にも言ったことが
あるんですが、自分の家族、一つの家族、この
一つの家族が平和になるように、お隣りの人が
平和になるように、お向かいの人が平和に
なるように、これをずっと広げてゆくと、
世界人類に押し広げなくてはならない。
 一人一人をずっと祈ってゆけばいいんでしょう
が、それを一言で言うと、世界人類が平和で
ありますようにという言葉に集約されて来ますよ
と、言ったことがありますが、実際、この
世界人類の中に自分も入っているんですね。人も
入っているんですね。
 そしてこの中には、何の反発も競争心も
起こらない、神様からのひびきが伝えられて来る。
 単なる願いのような弱いものじゃない、理想
でもない。向こうの世界では、もう現実そのもの、
大調和の世界というものがすでに出来上がって
完成している。それを今、地上に少しずつ少しずつ
確実に降ろして、本心に植え付けていく。そういう
ことを今やっているんです。
                 (翌日へ続く)

続 さやけき生命(6)

2013-09-19 08:38:01 | スピリチュアル
        (前日から続く)
 しかし、本当のところを言えば、神様と私の
関係なんですね。神様と私達の関係でもある。
 人類と神の関係でもある。世界人類と私、
世界人類と神、という関係でもあります。
 そこには比べるものなど全くないわけですよ。
 分けへだてもないし、上下関係もない。ある
とすれば、無限に広がっていく、それだけですね。
 あなたと私は兄弟なんですよと。同じく神から
分かれて来た生命なんですよと、分霊(わけ
みたま)なんですよと。だから、世界人類が
平和でありますようにと祈りをしている時に、
皆んな気持ちが平和になって、国連の時も
総立ちになって拍手が来たというのは、皆んなが、
ああ私達一人一人がみんな兄弟姉妹なんだなあ
という一体感を、観念じゃなくて、本当に実感
したということですね。

 そういう心を、一人一人の中に植え付けていく
運動というのが、祈りによる世界平和の運動
であり、この祈りによって皆んなが平和になって
行くという運動です。この運動は、なんか大きな
言挙(ことあげ)をして、我に大義あり、我こそ
正義というような運動じゃないんですね。一人
ずつ一人ずつ本当に一歩一歩、無理なく、本心へ
ひびいてゆく。一人一人の人達が、ああ本当だな、
ああそうだなあ、これは真理だな、そういう
気持ちは私の中にもあるなあ、と共感する。
                (翌日へ続く)

続 さやけき生命(5)

2013-09-18 08:52:32 | スピリチュアル
       (前日から続く)
 ところが人間というのは、ああ私はだめだなあ
とか、まだ出来てないなあ、自分はまだまだ
だなあとか、謙虚ではなく自己否定
してしまう。卑下してしまう。それは
よくないですね。
 自分を赦しという教義がありますが、自分を
本当の意味で解放して行ってやらないと、ああ
自分なんてとんでもないということになる。
 とんでもない存在を、人間を、神様が造る
はずがないんですね。この世に遣(つか)わす
筈がないんですね。だから、うちの昌美が
「あなた方は尊い器なんです」ということを、
いつも言うのは、感情の中ではそんな筈はない
と皆んながまだ思ってるので、言葉だけでも
尊い器なんですと、いやという程入って
来ないと変わらない位、頑固に、自分はダメだ、
まだまだだ、あの人に比べたらと思っている。
 なんか人と比べないと自分が安心できない。
 確かにそういうものもありますよ。人と自分
との関係で自分の価値をみい出してゆく。
               (翌日へ続く)

続 さやけき生命(4)

2013-09-17 09:21:14 | スピリチュアル
       (前日から続く)
 今の人達というのは、みんな派手めに動く、
オーバーに動く。今の言葉で言うと
パフォーマンスをする。パフォーマンスを
した方が何か勝ちみたいなことになっているん
だけれど、ところが真理というのは、それは
動かないものです。
 真理とは静かなもので本質そのものです。本質
というのは神様から流れて来ているものです。
 その神様は何を流しているかというと、人間に
対する愛情、愛念を流している。
 だからといってそれを大げさに受けとる必要も
なく、素直に喜ぶのはいいが、大げさな関係が
人間と神様の関係でもないのです。真理という
ものは飾らないし、愛というものも飾らないし、
愛というのはどこから見ても愛です。もう表も
裏も無くて、ただ愛なんです。表は愛だけど
裏はウラミツラミだというのは、これは愛じゃ
ない。どこをどう探したってつついたって愛
そのもの、それが神様から流れて来ている
愛ですよ。何の引っ掛(かか)りもない、何も
責めるところも裁くところもない。
               (翌日へ続く)

続 さやけき生命(3)

2013-09-16 08:46:29 | スピリチュアル
      (前日から続く)
 こういう誠心とか祈り心とか静か心
というものは、目に見えるようで見えない。
 その人がいくら信心深く装(よそお)って
いても、外から見てすごいなあと思っていても、
私達がこちらから見ているとですね、
すごい虚栄がある人だねと見てしまうことが
ありますよ。
 そうすると、ほかの人はごまかせるけれど、
神様はごまかせない。
 ふりをすることはいくらでも出来るけれども、
ふりが通らないのが神様です。
 神様というのは、例えば、何十万も何百万も
お布施を上げないと、こちらに光を送って
もらえない、振り向いてもらえないとか、そんな
ものじゃないんですね。何故かというと、我々
みんな神様から分かれて来た生命なんだから、
その元に向かって自分が動いてゆく、
働いてゆく。そこに向かって素直に語りかけて
ゆく。そういうところを神様は喜ばれる。
 「愛(う)い奴じゃ」てな感じでね。
 ところが、そういうことというのは、さき程
申しましたように、本当に目に見えない地味な
ことなんですね。
            (翌日へ続く)