人は、ふるさとびと

お帰りなさい と迎えて
下さる神様は、私達の
ふるさとなんです。

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平和の光 やわらぎの光となって・・・

2013-11-25 09:17:24 | スピリチュアル
光は
どこにでも
とどまって
この世界が平和であることを
しらせようとする

光は
世界中を駆けめぐって
人が
神の愛のすえであることを
しらせようとする

光は
平和とよろこびの使者
光は
一人一人の身内に
やさしさ
となり
祈りとなって
ともされている

あなた方が
世界平和の祈りを祈るとき
あなた方は光となって
世界を駆けるのだ
平和の光となり
やわらぎの光となって
すべての人の心にともる

平和の祈り言のなかで
人は
神の光をおくる器となって
この地上と天とを
愛でむすんでいるのである
    平成2年1月14日

本心のかがやき

2013-11-24 08:39:23 | スピリチュアル
本心というのは
いつも光りかがやいて
います
ゆったりとしています
悠々としているんです
その本心が
みなさん一人一人の
なかにある
そうしてこの
いのちを
私達をみちびいているわけ
ですから
ちっともあせることはない
のんびりやればいいんです

とにかく
世界平和の祈りを祈って
色々湧いてくるおもいを
ああこれで消えていくんだなあ
ありがとうございます
と祈りつづけていけばね
本心のかがやきが
表面にあらわれてきて
あせらなくなるんです

うれしくなってくる
それで本心と一つにとけ合って
祈ってゆくと
自分が祈っているとか
そんなことも忘れちゃう
そういうところを
つきぬけて
自由になってゆくんです
あるがまま
になってゆくんですよ
それは
もとが
そうなんだから

自分というものが
もともと光っていて 
かがやいていて
何のこだわりも
とらわれもない
朗らかな
神様から分けられてきた
生命なんだ
本心というものは
いつも
それを教えているし
その光で
私をしっかりと守ってるんだ
ということがわかると
こわいものはなくなります
あるのは
光一元の世界だけ
ということに
だんだんなってくるんです

かなしみも苦しみも
大変だけれど
その大愛をじっとみていると
それは消えてゆくんです
それは
祈りの光で消えてゆく
守護霊さん守護神さんを
呼んでゆくなかで
消えてゆく
五井先生を呼んでゆくなかで
消えてゆく
そして光明だけがのこる

何が起こっても
何があっても
光は闇にまさるんです
光が進軍してゆくとき
あらわれの世界では
それが苦になって出てくるんです
だからそれを消えてゆくんだ
とおもって
苦のまま
祈りつづけてゆくと
本心のかがやきが
光がずっとみなさんを
つつんでゆくんです

そのままでいいから
祈りつづけていると
世界平和の祈りにのって
苦が消えていって
あとは光ばかり
という世界を
しってゆくことになるのであります
      平成2年1月14日

肩ひじをはらないで

2013-11-23 07:10:12 | スピリチュアル
よく
肩に力の入ってる人
というのをみかけますよね
夫に対して
子どもに対して
かたくなって
いつのまにか
カチカチになってしまっている
笑っても
その笑顔がこおりついてる
なんて
そういう人によく出会います
そういう人は
自分のまわりに
ああして欲しいこうして欲しい
と思うわけだけど
でも
何よりも
自分自身を愛せていないんですね
ゆるせていない
これでいいと思えないんです

これはね これほど苦しいことは
ないですよね
まわりがみんなよくみえて
自分一人いつまで経っても
駄目だと思ってるんだからね
それで
こういう人と話をしていますと
まず
自分自身に緊張してるから
ガチガチになってるんです

肩の力を抜いて
何いったってかまわないから
と声をかけると
でも
夫を愛せません
子どもを愛せません
といったら五井先生に
どんな風におもわれるかって
みんな思っちゃうんですね
それでもぼちぼち
いいはじめて
私が何もいわずに
ああそうそう
そうだろうねえ
辛いだろうねえ
とすっぽり
その人の心のなかに入って
きいてゆくと
とけてゆくんですよ
一切とがめ立てしちゃいけません
責めちゃいけないんです

今まではみんな
お前がちゃんとしないからって
責めてばっかりきたんですね
もっと母親らしく
とか
もっとやさしくなぜできない
とかね
だけど人間
出来ないときは
できないんです
ちっともまわりが自分のいうことをわかって
くれない
と訴えてきたときに
そりゃああなたの努力が足りないよ
ではニベもない返事になってしまう

身動きのとれない苦しさ 辛さ
っていうものに共感して
そうだねえ
と一言
その人のとらわれが
かたさが
ふっと取れて和む
平和になるんです
そうしておいて
徐々にほぐれてきたら
まわりのことが考えられるようになるんです

おなかがへって今にも死にそうだ
という人に
世界平和の祈りをすすめたって
できるもんじゃありません
まず
その人のおなかを満たして
おちつかせて
それから平和の祈りに入ったって
何もおそくないんです
親切そうにみえて
その人が今一番のぞんでいるものから
遠いものを与えたって
なんにもなりゃしない
やっぱり
まず
のどがかわいてるなら飲ませ
おなかをすかせているなら食べさせ
ないているなら
せいいっぱい
なかせてあげること
それが大事です

すべては
その思いやりからはじまってゆきます
世界平和の祈りは広いひろい
祈りだけれど
まず
その人のために
あなた方が何ができるかって
ことをね
現実に即してね
それがすぐ
この人寒いんだな
じゃああたためてあげよう
とか
おみそ汁持ってきてあげよう
とかね
私に黙って側にいて欲しいんだなっていう
そういう
心をキャッチしてできるように
ならないと
ただ
祈れ祈ればっかりじゃあ
実を結んでゆきませんよね
その人を安心立命させることは
むずかしいです

だから
肩ひじはらないで
肩に力を入れないで
というのは
SOSを出して
あなた方の所に駆け込んできた
一人一人の人に
いったげないといけないことで
あると同時に
その歎きを受ける

あなた方自身も
決して力んだり
背のびしたり
いいかっこいおうとか
ここでひとつ相手がハッとするような
ことをいおう
とか
おもわずに
ああ
これは消えてゆく姿なんだな
この人の苦しみが一日も早く
とれますように
天命が完うされますようにって
心のなかで祈りながら
光を送るっていうことが
何よりも大事です

いわずに祈るんです
やさしくして祈る
そうすると
自分の心も
相手の心も
ほぐれてゆく
光が入って
神様の方から光がながれてきて
ほぐれてゆくんです
だから
肩ひじをはらずに
世界平和の祈りを祈りつづけて参りましょう
         平成2年1月13日

さりげなさ

2013-11-22 08:57:23 | スピリチュアル
さりげなさ
というのがいいですね
大げさ
というのは
さりげなさの反対だけれど
つい
人間というのは
大げさに
自分をふりむいてもらいたくて
色々いったりするでしょ
何だ何だ
とおもってきいてみると
あんまり内容が
なかったりする

自分が充実して
たしかに生きているなと
おもえる瞬間が
ないんですね
いそがしすぎるんです
たしかに
自分が生きてる
というより
時間に追われて
生きてるっていう
感じですよね
だから
今の世の中で
じっくりとさりげなさが
いいなあ
と感じるゆとりを持ってる
人は
すくないんです
けれど
その人が
感じるとか感じないとかより前に
さりげなさってのは
いのちのすがたの本質
なんですね

いのち
というものを
考えてみると
いのちそのものは
何の自己主張も
しない
ただ
あるがままに
そのすがたのままに
ながれてゆくんです
〝逝く河の流れはたえずして〟
っていう
あれですよね
草にしたって
樹にしたって
みずからの声を
あげずに
そのままの
自分自身のすがたで
すっと立ってるでしょう
ああいうすっきりした
いさぎよさ
というものが
ひとつの
いのちの本質なんです

ながれのままに
というと
自己がないみたいだけれど
そうじゃない
草花なら草花
樹なら樹は
自己のすがたをしって
そして
そのすがたのまま
すなおに
生きてるんです
だから
すっきりした
いさぎよさを
ささえているものは
さりげなさなんですよ
自分のいのちのすがた
というものを識ってるんです
だから声高にならない
なる必要がないんです

本当は
人間だってそうなのです
もともとが
神様からわかれてきた
いのちですから
自分のいのちというのが
自分の想いにかかわりなく
本来
さりげなく
すっきりしているものなんだ
ということがわかると
こんな楽なことはないんですけど
なかなかそうはいかなくて
苦しむ
しかし
それはみなさん自身が
苦しむのではなくて
過去世からの
みなさんのおもいが
あらわれて
消えようとするときに
苦しむんです
だから 
自分自身(本体、本心)は 
ちっとも苦しんじゃいないんです

ですけど
永年の習慣で
そんな風には
おもえないから
いかにも自分が苦しんでいるように
感じてしまう
実際
色々なことが
生活してると起こったり
ふりかかったり 
してきますからね
だけど
そのおもいに
とらわれていたら
いつまでも 
おんなじ所を
ぐるぐる廻ることになるんです
そうすると
せっかく
本来のいのちの相(すがた)というものを
持ちながら
いつまでも
それが発揮できずに
おわってしまう
いのちというものが
人間というものが
本当は
どういうものなのかが
わからないままに
おわってしまう
こんなもったいないことはないですよ

そこで 
いのちや人間の
本当のすがたというものを
我々が
無理なく悟ってゆく
しってゆくために
世界平和の祈りというものが
できたんです

世界平和の祈りのなかに
自分を入れてみると
まず
時間に追われている
自分
あくせくとこの世に
生きている自分
ではなくて 
その自分のおくにある
しずかな
祈りたがっている
本当の自分をしりたがっている
こころ
というものに
気づいてゆくのであります

そしてさらに
この自分がどこからきて
どこへ行こうとする存在なのか
自分のいのちの
ありか
といいますか
居場所
といいますか
その出発点をしらされて
そしてだんだん
自分が光明体なんだ
ということを
祈りのうちに
しらされてゆくのであります
つまり
自分のふるさとが
神であり
我々は
そこに帰ってゆくのだ
ということを
祈りのなかで
たしかめてゆくことに
なるのであります

いのちの相を
あきらめて(明らめて)ゆくもの
それが
祈りだということができるでしょう
世界平和の祈りを祈って
ゆくと
自分がかがやいていること
明るいことがわかってくるんです
心うれしくなってくる
何もいわなくても
満たされてくるんです
いのちの自然な相へかえるんです
さりげなく祈るということが
光になることだと
誰に教えられるわけでもなく
心にしみ込んでくる
そういうことなんです
      平成2年1月12,13日

祈る心すなおな心

2013-11-21 07:25:31 | スピリチュアル
祈りというものと
すなおな心というものとは
直結してる
おんなじだといってもいいんです

そんなことありません
私は
腹立てながら
世界平和の祈りを
やっています
とか
祈れない
という人も
いっぱいいるだろうけれど
それは
過去世からのおもいが今出て
やっと
あらわれて
消えようとしてるんだから
あなたのようだけれど
今のあなた自身じゃないし
本体ってものは
すなおに祈るということを
知ってるわけです
だから
平和の祈りのなかに
私がいつもいってるように
投げ込んでしまえば
いいわけですね

それで
祈ろうとする心
祈り心
祈りというものとすなおさ
というものは
これはもう
血肉の間柄っていいますかね
肉親的だというんじゃなく
たとえば
肉体のその皮膚の下に肉があって
血がながれているという風に
かならず
絶対条件として
この二つは二つながらに
ひとつだ
ということが
いえるんです

祈りは自分のいのちを
宣り出して
そして
自分のいのちと対面してゆくってこと
ですから
すなおに祈りを深めてゆくと
本体の奥の奥にある
みなさんの
天命がひらき
あらわれてくるんです
そういう風になっている
祈りというものは
自分のいのちを自由にする
っていうことです

天命だって
そうです
天命は
さながらのいのちを自覚し
とらわれず
あるがままに働くってことですから
だから本当に
あかるいものなんです
あかるいいのちなんですよ
天命は

それは生命そのもののすがたが
そうですからね
本当に
朗らかな
もんだから
いのちのすがたの
その光明体を
みるということで
祈って天命をおろされる
しらされるっていうことはね
自分自身が
光であることをしる
おわりのない
生きとおしのいのちの
なかにいるってことをしる
もうすでに
愛され
ゆるされ
守られて

ここに
こうして
いのちがあるってことを
しることなんです

世界平和の祈りってのは
無量の光明であり
愛であり
このなかに
神のこころのすべてが
あるんです
人類を愛し
進化させ
光の本体をしらせてやろう
という
神のみこころがあるわけです
先人たちの霊光も
みんな入ってる
結集している祈りです

この祈りに出合ったってことはね
天命に出合い
自分のいのちの朗らかさをしる
道に出合ったって
ことですよ
五井先生に出会ったというのは
そういうことなんだ
そして
みんな私に出会うんです
世界人類が平和でありますように
という祈り言を唱えることによって
何のこだわりもとらわれもない
あかるい自分自身というものに
出会うんです

その途中でつくため息や
ながしてゆく涙を
私は吸いとってるんです
柏手を打って
印をむすんで
世界人類の平和と
みなさん一人ひとりの
天命を祈りながら
あなた方自身が
光であることを
しらせているんです
それは
何度もいうように
すなおな祈りというものから
生まれ、展開してゆきます

祈りのうちに私たちのいのちのすがたを
しずかにこころに描いて参りましょう

世界人類が平和でありますように
    平成2年1月12日